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1-5 カッシート王朝とミタンニ王国

  • 前2285年頃:アッカド王サルゴンがシュメール・アッカド地方を統一。彼はメソポタミア北部のスバルトゥの地や下ザブ川上流地域に遠征し、恐らくフルリ人と戦ったと考えられている

  • 前2200年頃:フルリ人のアタル・シェンが「ウルキシュとナワルの王」を自称。下ザブ川とディヤラ川に挟まれた地域、ハブル川上流域までを領有

  • 前2154年頃:グティ人の侵入などで衰退していたアッカド王朝がウルク第4王朝によって滅ぼされる

  • 前2112年頃:ウルナンマがウル第3王朝を創始

  • 前2071年頃:ウル王シュルギによる第1次フルリ戦争(~前2068年頃)。シュルギは北部イラク、シリア、トルコにあった諸国に遠征。この地域にはフルリ人が多く居住。彼らはザグロス山中からヴァン湖周辺、トルコ南東部からイラン北西部にまで広がっていた。この年にはカラハルが征服される

  • 前2070年頃:シュルギがフルリ人の国シムルムを征服

  • 前2069年頃:シュルギがシムルムを再度征服

  • 前2068年頃:シュルギがフルリ人の国ハルシを征服

  • 前2064年頃:シュルギによる第2次フルリ戦争(~前2062年頃)

  • 前2053年頃:シュルギによる第3次フルリ戦争(~前2047年頃)

  • 前2051年頃:シュルギがシムルムに遠征(9度目)

  • 前2050年頃:シュルギがシムルムに遠征

  • 前2035年頃:フルリ人の国シマヌムがウルに反乱。ウル王シュ・シンは娘をシマヌムに嫁がせていたが、シマヌムは娘を追放。シュ・シンはシマヌムを破り、シマヌム人を強制移住させる

  • 前2004年頃:エラム人がウル第3王朝を滅ぼす

  • 前2000年頃:車輪におけるスポークが発明される

  • 前1761年頃:バビロン第1王朝のハンムラビがメソポタミアを統一

  • 前1741年頃:ザグロス山岳地帯(主にディヤラ川上流域)のカッシート人(民族系統不詳。イラン方面からザグロス山脈を越えたか)がメソポタミア北部に侵攻するも、バビロン軍に撃退される

  • 前1740年頃:ペルシア湾付近にてイリマイルム「海の国」第1王朝(バビロン第2王朝)を創始し、バビロンより独立(~前1475年頃)。南バビロニアを占拠。第6代の王グルキシャルは領土を北バビロニアにまで拡大

  • 前1730年頃:アジア系遊牧民がエジプトのデルタ東部に定着したか。彼らとともに彼らとともにヒクソス(フルリ人も基幹としていた)もエジプトに侵入したか。ヒクソスは第12王朝後期から傭兵としてエジプト人君主に仕えていたと考えられているが、彼らはカナーン諸都市からの移住者で、北方からの移住民(インド・ヨーロッパ語族、フルリ人)の到来と重なった人口増大がヒクソスをうんだとされる

  • 前1711年頃:バビロン王アビ・エシュフが即位。彼はカッシート軍を征服した

  • 前1700年頃:オリエント世界で馬にひかせた戦車が使用されるようになる

  • 前1700年頃:フルリ人がセム人の支配者を打倒し、ヴァン湖とザグロス山脈に挟まれた地域を支配

  • 前1683年頃:バビロン王アンミディタナが即位。彼は「海の国」を一時征服

  • 前1650年頃:ヒッタイト王ハットゥシリ1世が即位。彼はフルリ人らの支配地域を攻撃。これに対抗してフルリ人もアナトリア東部を攻撃した。この頃にはフルリ人トゥニプ・テシュプがメソポタミア北部のティクナニ国を統治しており、ハビルを傭兵などとして組織していたが、ハットゥシリに従っている

  • 前1620年頃:フルリ人がキリキアを奪取するも、ハットゥシリがこれを奪還

  • 前1600年頃:ユーフラテス川中流域にアムル人の国ハナ王国が繁栄。中心地はテルカ

  • 前1595年頃ヒッタイトムルシリ1世がサムス・ディタナ率いるバビロン第1王朝を攻撃。バビロンは占領され、バビロン第1王朝は滅亡(以後、中バビロニア時代となる)。ムルシリはバビロンに留まらずに退却。その途中でフルリ人を撃破した。なお、この頃のエラムではフルリ人の王が出現し始める

  • 前1595年頃:フルリ人がキリキアを奪う

  • 前1590年頃:カッシート人がバビロンで王朝を建てたか(カッシート王朝。バビロン第3王朝とも)。ムルシリはカッシート王朝と同盟を締結

  • 前1590年頃:ヒッタイト王ハンティリ1世が即位。ハンティリの治世には、アナトリア東部と南部にヴァン湖付近から侵入したフルリ人が勢力を拡大。ハンティリ1世の妻と子らは当時、戦争状態にあったフルリ人らに捕らえられ殺害された

  • 前1590年頃:フルリ人がアナトリア南東部にキズワトナを建国

  • 前1550年頃:北メソポタミアとシリアのフルリ人の諸国がミタンニ王国(ミッタニ王国)に統一される。首都はワシュカンニで、メソポタミア北西部のハブル川流域を中心とした地域を掌握。同じ頃にはメソポタミア北部の諸都市・諸王国などが崩壊した。ミタンニ王国が形成されたことが要因か。なお、ミタンニは複合弓と馬にひかせた戦車を利用したことで強国となり、国内では戦車隊を中心とする戦士の集団(マリヤンヌ)が君臨。戦車の基本形はミタンニが作ったか。なお、ミタンニ王国の支配層には、インド・ヨーロッパ語系のアーリヤ人を出自とする人々が含まれていた(もしくは、フルリ人社会にアーリヤ人が大きな影響を与えていた)

上図:メソポタミア要図

出典:『古代メソポタミア全史』
  • 前1550年頃:ヒッタイト王アンムナが即位。彼の治世にはフルリ人らの侵入が相次ぐ

  • 前1525年頃:ヒッタイト王テリピヌが即位。テリピヌの時代にもヒッタイト東部にフルリ人が襲来

  • 前1502年頃:エジプト王トトメス1世が即位。彼はアジア遠征を敢行し、海路でビブロスに到達した後に陸路で北進。不意打ちを受けたミタンニ側からは大した反撃を受けず、これを破る(ミタンニの軍事技術を恐れて実質的な攻撃はしていないとの説も)。エジプト軍は北シリアのユーフラテス河岸にまで進出し、カルケミシュ近郊に境界碑を設置。結果、シリア・パレスティナ全域はエジプトの宗主権下に

  • 前1500年頃:カッシート王ブルナ・ブリアシュ1世とアッシリア王プズル・アッシュル3世との間で国境が確定される

  • 前1500年頃:カッシート王アグム2世(彼がカッシート王朝初代の王とも)がハナ王国からマルドゥク像などを奪還。マルドゥク像はヒッタイト軍によってハナ王国に持ち去られていたか

  • 前1500年頃:ハラブ王イリム・イリンマが反乱によって死去。子のイドリミは各地を放浪後、ミタンニ王パラッタルナの後ろ盾でアララハ王となった。しかし、ハラブはミタンニ領に

  • 前1500年頃:ミタンニ王パラッタルナが勢力を拡大させ、アララハやハラブなどを勢力下に。キズワトナを服属させ、カトナを支配

  • 前1475年頃:「海の国」第1王朝の王エアガムイルがエラムに遠征するも敗退

  • 前1475年頃:カッシート王朝がエアガムイル王の「海の国」第1王朝を破り、バビロニアを統一。カッシート王朝はバハレーン島にも進出していた

上図:カッシート王朝の版図

出典:MapMaster, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前1471年頃:エジプトの女王ハトシェプストが対外遠征を中止。この隙にミタンニ王国はカデシュ侯を盟主とする対エジプト同盟を結成した

  • 前1470年頃:キズワトナ王ピリヤがアララハ王イドリミと条約を結ぶ

  • 前1460年頃:ヒッタイト王トゥトハリヤ1世が即位。彼はミタンニに従属していたイシュワ国に勝利。また、キズワトナ王シュナッシュラと条約を結び、ミタンニからの独立を支持した上で、相互防衛協定を締結、事実上の保護国とした。そうして、シリアに遠征し、ミタンニ勢力下のハラブを破壊し、ミタンニ領を侵略。その直後にキズワトナを併合した

  • 前1458年頃:エジプト王トトメス3世が単独統治を開始。当時はパレスティナ南部以外がミタンニの勢力圏となっていた

  • 前1457年頃トトメス3世の第1回アジア遠征。アジアの植民地化を目指し、ガザを奪取。さらに、カデシュの王子の反乱によって奪取されたメギドを目指し、隘路から進軍。メギドに布陣していた対エジプト同盟軍(シリア・フェニキア・カナーンの330人の君侯の軍からなり、カデシュ侯が指揮)の裏をかき、未明に急襲して撃破。7ヶ月の包囲の末にメギドを降伏させ、カデシュ侯をはじめとする君侯ら全てに忠誠を誓わせる(メギドの戦い)。この後、トトメスはカッシート、アッシリア、ヒッタイトに朝貢を促す。以降、王は連年、アジアに遠征し、エブラなどの諸都市を征服。カトナにも遠征した

  • 前1451年頃:トトメス3世の第6回アジア遠征。シミュラ港に上陸し、カデシュを占領。対エジプト同盟は崩壊し、エジプトがほぼシリア全域を掌握。守備隊を駐屯させ、君侯らに貢納・軍役提供の義務を課す。また、君侯の長子は人質としてエジプトに連行され、そこで教育を施されることに

  • 前1447年頃:トトメス3世の第8回アジア遠征。同王の遠征で最大規模。この遠征でトトメスはミタンニと直接対決を行い、ハラブおよびカルケミシュ近郊で勝利。エジプト軍はカルケミシュ付近でユーフラテス川を渡ったが、ミタンニ軍は決戦を避け、内陸部に退却したので、深追いしなかったという。トトメス3世は祖父トトメス1世の碑に並べて、新たな境界碑を立てた。帰路、エジプト軍はテュニプを攻略し、カデシュを再び占領。カッシート王朝やアッシリア、ヒッタイトの王はエジプトのシリア支配を承認した

  • 前1440年頃:ミタンニ王サウシュタタルが即位。アラプハ王国を支配下におき、アッシリア王国を制圧。首都アッシュルから略奪し、臣従させる。ウガリットなども支配下に置き、北シリア全域・キズワトナにその版図を拡大、ミタンニ王国の最盛期を築く。サウシュタタルはトトメス3世に敗れることもあったが、後にエジプトと和解を成立させる

上図:ミタンニ王国の版図

出典:『古代オリエント全史』
  • 前1438年頃:トトメス3世の第17回アジア遠征。これが最後のアジア遠征で、王はカデシュを占領し、オロンテス川中流以南のエジプト支配を確立

  • 前1425年頃:エジプト王アメンヘテプ2世が単独統治を開始。シリアの約30の都市国家が共謀して反乱。反乱軍の背後にはミタンニ王国が存在

  • 前1424年頃の4月:アメンヘテプ2世が西アジアの反乱鎮圧に出陣。北パレスチナに進軍し、オロンテス川を渡河。都市ニイはトトメス3世時代の経験から、アメンヘテプに恭順

  • 前1424年頃の秋:アメンヘテプ2世がティクシ地域(ハラブ付近)の王子7人を捕虜とし殺戮、すべての反乱を鎮圧した。その後、エジプトに凱旋する

  • 前1420年頃:ヒッタイト王国が周辺諸勢力の侵攻によって衰退

  • 前1419年頃:アメンヘテプ2世が西アジアに出征

  • 前1417年頃:アメンヘテプ2世が西アジアに再び出征。王はカデシュの南の戦いで反乱軍を破り、叛いた30の都市国家を服属させる

  • 前1417年頃:アッシリア王アッシュル・ベル・ニシェシュが即位。カッシート王カラインダシュと友好条約を締結し、国境を画定

  • 前1400年頃:シリア砂漠からメソポタミア、シリアに向かい、アクラムというセム系の遊牧民集団の定住運動が起こる

  • 前1400年頃:カッシート王カダシュマン・ハルベ1世がシリア砂漠に要塞を建設。半遊牧民撃退のためであった

  • 前1400年頃:カッシート王クリガルズ1世が新都ドゥル・クリガルズをバビロン北方に建設

上図:ドゥル・クリガルズ

出典:Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg), CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前1397年頃:エジプト王トトメス4世が即位。彼は在位中にミタンニとの同盟条約を締結。シリア北部はミタンニの、シリア南部とパレスチナはエジプトの支配下に入ることを相互に承認した。ミタンニ王アルタタマ1世以降、3世代にわたってミタンニ王女がエジプトに嫁ぐ。なお、アルタタマ1世はヒッタイト軍を押し返したという

  • 前1390年頃:アッシリア王エリバ・アダド1世が即位。彼はミタンニに対抗して、カッシート王朝と同盟

  • 前1388年頃:エジプト王アメンヘテプ3世が即位。カッシート王クリガルズ1世はアメンヘテプ3世に娘を嫁がせる

  • 前1380年頃:ミタンニ王国がヒッタイトに敗北し、メソポタミア北東部を喪失

  • 前1379年頃:ミタンニ王シュッタルナ2世の娘がアメンヘテプ3世に輿入れする。後のミタンニ王アルタシュマラは王宮内の反逆分子に暗殺され、傀儡王のトゥシュラッタが即位させられる(後にはトゥシュラッタの娘がアメンヘテプ3世の妃に)。やがて、トゥシュラッタは反逆分子を一掃するも、反トゥシュラッタ派はミタンニ東部にアルタタマ2世を擁立

  • 前1363年頃:アッシリア王アッシュル・ウバリト1世が即位。彼は対外的には「アッシリアの王」や「大王」を名乗る

  • 前1359年頃:カッシート王ブルナ・ブリアシュ2世が即位。彼は当初、アッシリアを属国と捉えていたが、アッシュル・ウバリト1世の娘を自身の息子の妻とする

  • 前1351年頃:エジプト王アメンヘテプ4世が即位。彼はアジアへの親征を行わず、シリアの都市国家間の反目が激化。ハビルがパレスチナの諸都市を制圧したという。また、ミタンニとの同盟政策も破綻

  • 前1350年頃:ヒッタイト王シュッピルリウマ1世が即位。彼はキズワトナを奪還し、ミタンニと同盟していたイシュワに征服されたテガラマ奪還を目指す。またシュッピルリウマはテガラマ奪還に備えてアルタタマ2世に庇護を与える。更に、シュッピルリウマはシリア遠征を行い、トゥシュラッタと戦うも、ニブラニ山での戦いで敗北

  • 前1350年頃:アッシリア王アッシュル・ウバリト1世がシュッピルリウマ1世の支援を受けて、ミタンニ王トゥシュラッタを攻撃。結果、アッシリアは独立。後にアッシリアはアルタタマ2世が築いたミタンニ東部の根拠地を占領する

  • 前1345年頃:シュッピルリウマ1世がカッシート王に王女を与える

  • 前1333年頃:カッシート王ブルナ・ブリアシュ2世が死去。後継者の選定に関して、アッシリアの影響増加を危惧する一派が蜂起したため、アッシリアが直接介入。結果、カッシート王子とアッシリア王女との間に生まれたカラハルダシュがカッシート王に即位するも、アッシリアの干渉に反対する一派に暗殺される。代わりに素性不明のナジ・ブガシュがカッシート王に

  • 前1332年頃:アッシュル・ウバリト1世がナジ・ブガシュを処刑し、クリガルズ2世をカッシート王に擁立。カッシート王朝はシュッピルリウマ1世に王女を嫁がせた。また、クリガルズはアッシリアの侵攻に備えて城壁を建設。他にもエラムと戦い、その王を捕らえてスサを攻略した

  • 前1328年頃:アッシュル・ウバリト1世が死去。彼の没後にアッシリアは一時衰退

  • 前1327年頃:アッシリア王エンリル・ニラリが即位。彼はカッシート王クリガルズ2世を破った。結果、両国の間で領土配分が行われ、アッシリアが領土を拡大

  • 前1323年頃:ヒッタイト王シュッピルリウマが1年に及ぶシリア遠征に出発(「一年戦役」)。ヒッタイトはミタンニ東部の国々と条約を結び、外交関係を構築していた。まずシュッピルリウマは、ミタンニの属国イシュワを下し、ミタンニの首都ワシュカンニを包囲。ミタンニ王トゥシュラッタが籠城したため、シュッピルリウマは北西シリアに進撃。ミタンニの属国であるウガリットやムキシュ(オロンテス河畔のアララハを中心とする国)を攻略した。オロンテス川流域のカトナを滅ぼし、エマル王国(かつてフルリ人がエマルの城壁を包囲したこともあったという)を属国とする。更にアムカの都市カデシュをも破り、ダマスクス周辺にまで到達した。この遠征の中でアララハも占領されている。また、ハラブの占領にも成功し、息子のテリピヌに統治させた。北部シリアの王らはハットゥシャに捕囚される。この後、シュッピルリウマ自身はテリピヌに後を託して本国に戻る。一方で、将軍のルパッキにはカデシュを奪還しにきたエジプトを撃退させている。その後、ヒッタイト軍は撤退したが、ミタンニはエジプトと結び、反撃を開始。エジプトはカデシュを奪還したが、ミタンニでは王家の内紛で王トゥシュラッタが息子によって殺害された。シュッピルリウマはヒッタイトに亡命していたミタンニの王子キリ・テシュプ(王を暗殺した者とは別人)の支援要請で内紛に介入。ヒッタイトの支援を得たキリ・テシュプはワシュカンニを奪還し、ミタンニ王シャッティワザとして即位する。ヒッタイトは彼と条約を結んだ上でミタンニを属国化。自身の娘を嫁がせ、ミタンニ領を半減させる。更にカルケミシュを包囲。その攻略戦をテリピヌに委ねるも、フルリ人の反撃によってシュピルリウマ自らが再び指揮をとる

上図:シュッピルリウマ1世の遠征図

出典:『ヒッタイト帝国』
  • 前1322年頃:シュッピルリウマ1世が疫病により死去

  • 前1313年頃:ヒッタイトに属するハラブの副王テリピヌ及びカルケミシュの副王シャッリ・クシュフが死去。ヌハッシェとカデシュの反乱は激化し、アッシリアがカルケミシュ王国に侵入、これを占領。時期は明確でないが、アッシリアとミタンニは同盟を結び、ヒッタイトの支配下にあったハニガルバトという地域を奪取したという。また、東方のアッジ国、ハヤサ国も「上の国」に侵入。ヒッタイト王ムルシリ2世はこれらの攻撃を耐え抜き、アッシリアをカルケミシュから撃退。東方のアッジ国、ハヤサ国も破った

  • 前1305年頃:アッシリア王アダド・ニラリ1世が即位。カッシート王ナジ・マルタッシュはアッシリアとの国境を巡って、アッシリアと激突。アダド・ニラリが勝利した

  • 前1300年頃:ミタンニ王国の残滓としてハニガルバトが成立。ヒッタイトの同盟国であったが、ハニガルバト王がミタンニ王家の直接の後継者かは不明。しかし、アッシリア王アダド・ニラリ1世の遠征によって、ハニガルバト王シャットゥアラ1世は捕らえられ、属国とされる

  • 前1300年頃:ミタンニ人による馬調教文書である『キックリの馬調教文書』が執筆される

  • 前1300年頃:イゲ・ハルキがエラム王となり、イゲ・ハルキ王朝を樹立。以後、エラムの中王国時代が始まる。イゲ・ハルキはフルリ人の血が入っていたと考えられるが、彼は従来通り「アンシャンとスサの王」の称号を用いる

  • 前1281年頃:カッシート王カダシュマン・トゥルグが即位。アダド・ニラリ1世と条約を結ぶ

  • 前1280年頃:ハニガルバト王ワサシャッタが反乱を起こすも、ヒッタイト王ムワタリ2世はこれを支援せず。ハニガルバトは再びアダド・ニラリの進軍を受け、首都の一つであるタイデなどを占領され、ワサシャッタ王ら一族はアッシュルに連行された

  • 前1275年頃の5月初頭:ヒッタイトとエジプト新王国が激突(カデシュの戦い)。両国の勢力範囲はほぼ変わらず

  • 前1264年頃:ハットゥシリ3世がムルシリ3世を打倒し、ヒッタイト王に即位。ムルシリは北シリアの属国ヌハッシェに亡命したが、アヒヤワ国やアッシリア、カッシートの支援で反乱を図ったために別の場所(キプロス島か)に送られた。ハットゥシリはアムル、カッシートと条約を結び、アムル、イシュワ、カッシートと政略結婚を行う(カッシート王カダシュマン・トゥルグとは同盟を締結。背景にはアッシリアの脅威があったか)

  • 前1263年頃:カッシート王カダシュマン・エンリル2世が即位。以降、宮廷での権力闘争が激化

  • 前1260年頃:エラム王ウンタシュ・ナピリシャが即位。彼はカッシート王朝の支配を打破し、ペルシア湾岸の交易網を掌握。更に現在のチョガー・ザンビルに新都アール・ウンタシュ・ナピリシャを造営

  • 前1245年頃:ハニガルバト王シャットゥアラ2世がアッシリアに反乱(ヒッタイトはアッシリアの宗主権を認めていた)。この反乱に対し、アッシリア王シャルマネセル1世はハニガルバトを完全に併合。住民は強制移住させられ、ミタンニは完全に滅亡した

上図:前13世紀のオリエント情勢

出典:Original: Sémhur; obra derivada: Zunkir; topónimos en español: Dodecaedro., CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前1240年頃:ヒッタイト王トゥトハリヤ4世が即位。アッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世はトゥトハリヤと対立。ヒッタイトとの和平交渉のさなかに、トゥクルティ・ニヌルタはヒッタイト勢力下にあった北西のフルリ人らの国々を攻撃。これによって、アッシリアはハニガルバト北部のスバルの国々を支配下とした

  • 前1225年頃:アッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世がバビロニアに侵攻。カッシート王カシュティリアシュ4世をアッシリアに連行し、マルドゥク神像とともに捕囚。トゥクルティ・ニヌルタはしばらくバビロニア王を名乗り、バビロニア北部を直接統治。また、彼は「シュメールとアッカドの王」を自称

  • 前1224年頃:アッシリアがエンリル・ナディン・シュミをバビロニア王とし、傀儡政権とする

  • 前1216年頃:カシュティリアシュ4世の子アダド・シュマ・ウツルが、アッシリアの支配を跳ね返し、カッシート王に即位。アッシリア勢力をバビロニアから一掃する

  • 前1207年頃:イゲ・ハルキ王朝最後の王キデン・フトゥランがバビロンを2度攻撃。更にアッシリアにまで進軍するも、エラム本国で叛乱が起きたために帰国しようとしたところを、アッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世に敗北

  • 前1207年頃:アッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世が権力闘争の末に息子に暗殺される。アダド・シュマ・ウツルはこの機に弱体化したアッシリアを撃破

  • 前1202年頃:アッシリア王アッシュル・ニラリ3世が即位。バビロンの支配権を巡ってカッシート王朝とアッシリアが激突し、両者とも弱体化

  • 前1190年頃:ヒッタイト帝国が滅亡

  • 前1180年頃:カッシート王朝がエラムに大敗

  • 前1158年頃:カッシート王ザババ・シュマ・イッディナが即位。アッシリア王アッシュル・ダン1世と戦い、北方の領土を喪失

  • 前1158年頃:エラム王シュトルク・ナフンテ1世が、アッシリアの内紛に乗じてバビロニアに侵攻し、バビロンをはじめとするバビロニア諸都市が占領。シッパルから『ハンムラビ法典』碑や「ナラム・シン王の戦勝碑」が掠奪され、スサに運ばれる

  • 前1157年頃:マルドゥク・カビト・アッヘシュがイシンでイシン第2王朝(バビロン第4王朝)を樹立

  • 前1155年頃:エンリル・ナディン・アヒ統治下のカッシート王朝がエラムの攻撃によって滅亡。エラムの王子クティル・ナフンテ2世はバビロンを攻撃し、エンリル・ナディン・アヒ王とマルドゥク神像を捕囚。これにより、エラムはオリエント世界最大の軍事勢力となる(エラムの最盛期)。なお、イシン第2王朝もエラムの攻撃を受ける

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