見出し画像

1-5 ヒッタイト帝国の衰退と滅亡

  • 前1272年頃:ヒッタイト王ウルヒ・テシュプが即位。都をハットゥシャに遷し、ムルシリ3世を名乗る。彼はベンテシナをアムル王に復帰させた。なお、前王ムワタリの晩年にはエーゲ海沿岸のヒッタイト領はアヒヤワ国によって不安定となっていた

  • 前1272年頃:ラメセス2世によるシリア遠征。海岸沿いにウラッザ近くまで進軍

  • 前1270年頃:ラメセス2世によるシリア遠征

  • 前1264年頃:ムルシリ3世が叔父のハットゥシリの管轄下にあったネリクとハクピシュを取り上げる。これを受けて、ハットゥシリはムルシリに宣戦布告。ムルシリとハットゥシリは「上の国」で激突したが、王族のシッパジティの援護及びカシュカを取り込んでいたことが勝因となり、ハットゥシリが勝利。ムルシリはサムハに退却した

  • 前1264年頃:ハットゥシリがサムハを陥落させ、ムルシリを捕らえる。結果、ハットゥシリがヒッタイト王に即位(ハットゥシリ3世)。ムルシリは北シリアの属国ヌハッシェに亡命したが、アヒヤワ国やアッシリア、カッシートの支援で反乱を図ったために別の場所(キプロス島か)に送られる

    • 内戦後の展開

      • ムルシリの弟クルンティヤがタルフンタッシャ副王とされる(西方の属国の統治・管理を担当)

      • ハットゥシリがアムル、カッシートと条約を結び、アムル、イシュワ、カッシートと政略結婚を行う(カッシート王カダシュマン・トゥルグとは同盟を締結。アッシリアの脅威が背景にあったか)

      • ハットゥシリがアナトリア南部で発生した反乱を鎮圧すべく、アナトリア南西部のルッカの国々(ルッカの国々はトロイアの最も親密な同盟国であった)に遠征

      • ピヤマラドゥが反乱軍に対してアヒヤワ王の兄弟タワガラワのいるミラワタ(アヒヤワの保護領)への逃亡を促し(タワガラワは反逆者をアヒヤワに送り込む手助けをしていた)、ヒッタイトに忠実なルッカの人々を追放

      • ハットゥシリがピヤマラドゥ軍をイヤランダで破り、ピヤマラドゥの義理の息子アトパの治めるミラワタを占領。ピヤマラドゥはアヒヤワ王の保護下に逃亡し、ヒッタイト領のアナトリアへ襲撃を続ける。なお、アヒヤワ王はピヤマラドゥの引き渡しを拒否したか(ヒッタイトとアヒヤワはウィルサを巡り対立があったが、すでに解決していた)

      • 北方では王子であるヒシュミ・シャルマ(後のトゥトハリヤ4世)がカシュカ族への軍事作戦を成功させている

  • 前1262年頃:ムリシリ3世がエジプトに亡命

  • 前1258年頃:ハットゥシリ3世がエジプトと平和条約を締結(背景にはアッシリアの脅威があったか)。ハットゥシリ側からの申し出であったという。オロンテス川が両国の国境線となり、領土不可侵、相互軍事援助などが決められる。これが世界最古の相互不可侵条約である

    • ヒッタイトとエジプトの関係

      • 当時のヒッタイトは飢饉に苦しんでいたようで、エジプトから穀物の輸送が行われていた。王子ヒシュミ・シャルマはエジプトに派遣され、食糧支援を交渉

  • 前1250年頃:伝説では、モプソス(クレタ人を祖とする)がエーゲ海域、トルコの南岸・西岸、地中海東岸(カナーン)の集団を統合。この集団にはペリシテ人やチェケル人(トロイア人)もいたか

  • 前1250年頃:「海の民」の大移動が始まる。「海の民」にはシェルデン(後のサルデーニャ人)、エクウェシュ(アヒヤワ人)、トゥルシア人(後のエトルリア人)、ルッカ(リュキア人)、テレシュ(リュディア人)、ペレセト(ペリシテ人)、チェケル(トロイア人)、シェケレシュ(後のシチリア人)、デネン(キリキア人)、ウェシェシュ(出身地不明)らが加わっていた

    • 「海の民」について

      • 彼らの中にはアナトリア西部及び南部の沿岸地域に由来するものが多く、アナトリア西部の政情不安や飢饉が大移動の原因か(ドナウ川流域付近に端を発する)。他にも大津波との説もあり、ウガリットの大地震が発端とも

      • 彼らの一部にはフィリスティアのアッコとドルに定住したものもいた

      • 「海の民」は胸甲を用いていた(ヨーロッパでも青銅製のものが使われていた)が、このような胸甲と長剣を用いた軽快な歩兵の集団が戦車を圧倒したとする説がある

  • 前1245年頃:ハットゥシリ3世の娘がラメセス2世の妃となる

  • 前1245年頃:ハニガルバト王シャットゥアラ2世がアッシリアに反乱(ヒッタイトは、ハニガルバトに対するアッシリアの宗主権を認めていた)。この反乱に対し、アッシリア王シャルマネセル1世はハニガルバトを完全に併合。住民は強制移住させられ、ミタンニは完全に滅亡した。また、シャルマネセルはヒッタイトにも勝利している

上図:前13世紀のオリエント情勢

出典:Original: Sémhur; obra derivada: Zunkir; topónimos en español: Dodecaedro., CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前1240年頃:ヒッタイト王トゥトハリヤ4世が即位

    • トゥトハリヤ4世の治世における出来事

      • ヒッタイトの属王でタルフンタッシャ王クルンティヤ(ムルシリ3世の弟。タルフンタッシャ王はカルケミシュの副王と同等)が大王、ラバルナと自称していたため、トゥトハリヤはクルンティヤに忠誠を誓わせる(一時期、クルンティヤがハットゥシャで大王を名乗り、ヒッタイト王となった時期がある可能性も)

      • セハ王マシュトゥリが世継ぎを残さず死去したことから反乱が発生したが、トゥトハリヤはこれを鎮圧。当時、アヒヤワの代表者タルカスナワはヒッタイト王によって退任させられたらしい

      • ウィルサ王ウァルムが敵勢力(正体不明)の攻撃によって追放されたが(ミラの王のもとに逃亡)、トゥトハリヤはこれを復位させ、傀儡とした。このとき、ウァルムを保護していたミラ王タルカスナワがこれに協力したため、ミラがウィルサに対して部分的な宗主権を獲得

      • アッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世と対立。ヒッタイトとの和平交渉のさなかに、トゥクルティ・ニヌルタはヒッタイト勢力下にあった北西のフルリ人らの国々を攻撃。これによって、アッシリアはハニガルバト北部のスバルの国々を支配下とし、ナイリ(ヒッタイト語ではニフリヤ)が両国の国境となる

      • こうしたアッシリアとの緊迫した状況に対して、ヒッタイトはアヒヤワの船がアッシリアと交易しないよう、アムル王サウスガムワに圧力をかけ、ウガリットとアムルにはアッシリアへの経済封鎖を命じた

      • トゥクルティ・ニヌルタがナイリ郊外にてヒッタイト軍を撃破(ニフリヤの戦い)。結果、ヒッタイトの属国ウガリットは独自の動きを取るようになり、アナトリア東部などで版図を拡大した。こうして、トゥクルティ・ニヌルタは治世初期に多数のヒッタイト人をユーフラテス川の対岸から強制移住させ、北方及び東方の山岳地方に遠征

      • トゥトハリヤがルッカの国々に遠征し、勝利したと主張するが、アナトリア南西部は無政府状態に。ウィルサも政情不安に陥っている

      • この頃にはアヒヤワの艦隊がシリア海岸に出没し、アヒヤワ王アッタリシャがヒッタイト領への侵攻を開始

      • トゥトハリヤがアラシヤに対し、ウガリットとアムルの海軍力を得て海上遠征を挑み、アラシヤを征服。一時的にアラシヤに親ヒッタイト政権を樹立した

      • トゥトハリヤがハットゥシリ3世の別の息子ヘシュニに暗殺計画を立てられるも失敗に終わる

上図:トゥトハリヤ4世。『ヒッタイト法典』を改訂したという

出典:Wikipedia

上図:ヤズルカヤの岩の神殿。トゥトハリヤ4世が建設した

出典:Klaus-Peter Simon, CC BY 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で

上図:ヒッタイト帝国末期の版図

出典:『ヒッタイト帝国』
  • 前1230年頃:トロイア第7a市が破壊される。襲撃はミケーネ人によるとも、「海の民」によるとも。伝承では、ギリシア連合軍がトロイアを攻撃し、10年間の包囲戦の末に陥落させたという(トロイア戦争)。この戦争で敗れた人々が後に難民となってエジプトなどに殺到したか

  • 前1215年頃:ヒッタイト王アルヌワンダ3世が即位。彼はアルザワを併合し、西南アナトリアに進出。しかし、東からはアッシリアの、西からは諸民族の攻撃を受け、ヒッタイトは衰退

  • 前1213年頃:エジプト王メルエンプタハが即位。メルエンプタハは北部で敵の攻撃を受け、不作にも苦しむヒッタイトの支援要請に応じ、穀物を送っている

  • 前1207年頃:ヒッタイト王シュッピルリウマ2世が即位

    • シュッピルリウマ2世の治世における出来事

      • アラシヤに3度の海戦を伴う海上遠征を実施。しかし、結果は芳しくなく、ヒッタイト軍はアナトリアに侵入してきた敵軍を陸上戦で破っている

      • アナトリア南西部でヒッタイトの属国が反乱を起こし、シュッピルリウマはルッカの国々とその周辺地域に遠征し、勝利。加えて、恐らくハルタプ(ムルシリ3世の子)が統治するタルフンタッシャを征服している。タルフンタッシャ王はヒッタイトへの攻撃を行っていたか

      • シュッピルリウマがカルケミシュ副王タルミ・テシュプとはほぼ同格の立場で条約を結んでおり、カルケミシュ副王国はほとんど独立していたと考えられている

上図:シュッピルリウマ2世

出典:China Crisis, CC BY-SA 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前1200年頃:キプロス島のエンコミ、キティオンなどの沿岸都市が破壊される。この後、都市は再建されるが、担い手はミケーネ人であり、彼らは「キクロペス式城壁」(ミケーネ、ティリンスの宮殿の様式)をもつ都市を築く。ミケーネ人はギリシア本土の混乱から逃れてきたか

  • 前1200年頃:外敵の侵入によってミケーネ文明が崩壊。外敵の候補としては「海の民」が考えられている一方、国内の対立や反乱を原因とする考えもある

  • 前1200年頃「海の民」が東地中海全域を混乱させ、多くの都市国家を滅ぼす(前1200年のカタストロフ。南東アナトリアのコーデやアララハ王国、アルザワやアラシヤもこの頃に滅亡)。ウガリットはヒッタイトのルッカ遠征に援軍を送った影響で手薄となったところを襲撃され、崩壊

  • 前1200年頃:シリア砂漠からアラム人が移動を開始し、東シリアを攻略

  • 前1190年頃:ハットゥシャが放棄される。ヒッタイトの人々はシリア北部、なかでもカルケミシュに避難したか。「海の民」による動乱によって、治安が悪化したことなどが背景と考えられる。この後、ハットゥシャは恐らくカシュカ族によって略奪・破壊されたか。こうして、ヒッタイト帝国は滅亡

    • ヒッタイト滅亡後の各勢力

      • タルフンタッシャ、カルケミシュの副王国は存続

      • アナトリアにはトラキア方面から印欧語族のフリュギア人が移住し、カシュク(カシュカ族か)がマラッシャンティヤ川の南の湾曲部まで進出

      • アナトリア南東部・シリア北部では旧ヒッタイト領のキズワトナからの移住民(ルウィ系・フルリ系の混合民族)が都市国家を建設(新ヒッタイト)。なお、ヒッタイトが滅亡したことで、オリエント世界は鉄器時代に突入する

  • 前1185年頃:エマルがアラム人などの部族に屈する。エマルは前13世紀にカルケミシュに従属していた

  • 前1175年頃:東地中海沿岸で行われた破壊活動が終焉。キリキアなども崩壊した

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?