表現者として―「青のオーケストラ」―

明日から広島に行く。まだ何の準備もしていない私がパソコンに向かっていいものなのかと、思わなくもないが。

連れには悪いが少し「よふかし」させてもらおう。純粋なこの感情を記録しておきたい。いち「表現者」として、つたないながらも。(画像はすべて『青のオーケストラ』阿久井真 20/09/15より)

どうも、しがない京大生です。

私は先ほどまで「青のオーケストラ」という漫画を読んでいた。裏サンデーで連載中らしく、ネットの広告から試し読みしたあげく、マンガワンというアプリで最新話まで夢中になって読んでしまった。その時に受けた心の揺れがどうしても、私にパソコンに向かわせた。

元はといえば、その連れがオーケストラに詳しいなんてことがあった。少しでも知っていれば盛り上がるかも、という気で少し読み始めた。なんならもっと打算的だったかもしれない。


じつは、私の母はかなりクラシック好きだ。今でも声楽に通っているし、家に帰れば必ずと言っていいほど曲がかかっている。小学生の頃はいつも家に帰ればステレオから聞こえるオーケストラが私のBGMだった。

母は私に音楽をやらせようとした。どうもチェロを弾いてほしかったらしい。ただどうにもピアノ第一主義で、ピアノを弾けない人間に音楽をやらせる気は起きなかったようだ。とはいえ、私自身音楽に興味もなく、スポーツ漬けの日々であった。しまいには小賢しくなった私はクラシックを「血税の上に成り立った貴族の遊戯に過ぎない」などと断罪した。


本当はずっと興味があった。中学の時、ピアノを弾ける同級生がうらやましいと思っていたし、ギターを弾く軽音部になりたいとも思った。ツーチェロズのCMを見ては、自分にできないことを悔やんだ。

そんな音楽初心者にとって、「青のオーケストラ」は都合がよかった。漫画というハードルが私にとって踏み越えやすかった。

ありがたいことに、一から説明をしてくれる。ドヴォルザークの「新世界」のことも、もちろん常識程度には知っていたが、それでも丁寧に私を引き込んでくれた。

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「音楽というものは想いを乗せる」
こんなありきたりな言葉をよく聞く。気持ちを乗せて歌ったり演奏するのもよくわかるのだけれど、頭でっかちな私にはどうにもその音楽の違いが陳腐なものに見えて仕方がなかった。

それを作者の阿久井真はマンガで伝えてくれた。

このマンガは素直に美しい。私は非常に好きだ。

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同時にふと思うのだ。なんて私は乏しい人間のなのかと。いかにして、表現者足りえないのかということを痛感した。

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自分の資質が欠落していることを躊躇なく突き付けられた。この作曲者と演奏者こそが「表現者」だ。私はいつも独りよがりであることを思い出させられた。なぜなら私は「表現者」ではないからだ。「表現者」とは単にみんなに分かりやすく伝えることではない。時には伝わらないだろう。しかし、彼らは、表現者は「表現する」、その卓越した力で、世界を切り取ってゆく。

「教養」とは人とのかかわりを言ったものだというのは、まさに言い得て妙であった。確かに「教養」と呼ぶべきものは、世界を切り取ったものだ。自らが世界と触れ合ったその瞬間、それを切り取る。そこに表現が存在する。だからこそ深みが出る。その人にしかできない。まさに個性である。

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だからこそ私にとってこの言葉は重かった。積み重ねるとはそういうことである。人間としての幅、深み、器である。


私の小説嫌いもよくなかったのだろう。確かに、自分でも思うが経験家ではあるし、「小説的」に体験をできる人間かもしれない。しかしそれは表現ではない。だから私は人から理解されにくいのである。当然である。表現できていないのだから。


そういう意味で、阿久井真は類まれなる表現者である。マンガとオーケストラ、哀愁、青春、恋心、すべてを「美しく」表現する。

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恐らく広島では「色々な」ものを体験するであろう。しかし、私が表現できるのはまだ先のことである。

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