『目的論』を応用した「尊敬をすべき人、そうでない人」の判断基準の考察
フロイト心理学=原因論
アドラー心理学=目的論
著「嫌われる勇気」によると次のように述べられている。
アドラーは原因論を否定し目的論を唱える。
↓ 理由
原因を知ったところで今ここに起きてる問題の解決にはならない。
↓ しかし
裏の目的を知れば今この瞬間にあらゆる問題を解決することができる
↓
↓ これを<尊敬するということ>にも応用してみる ← 今回の主題
↓
~だから尊敬する。でなく、~のために尊敬する。
つまり、アドラーに従うと<尊敬の念>も何らかの目的のために利用している意識にすれば良いんじゃ?
↓ 例えば...
「私はどんな人も尊敬する」「それはどんな人間にも尊敬する部分があるからである」という考え方があるが、これを目的論チックに解釈してみる。
ここで、尊敬には「人を好意に思う尊敬」と「目標にしたい尊敬」の二種類に分けられると考えてみて、それぞれの目的を考えてみた。
↓ 前者の目的
「他人に対して良い評価で平和に接したいから」
↓ 後者の目的
「自身を向上させるための原動力に利用するため」
今回行いたいのは、これによって「理論上全人類を尊敬できるが、実際それは逆にストレスになったり、もしくは現実的に無理」→「なら『いったい尊敬する、しないの判断基準は何ぞや』」という疑問を解決することである。
【前者:人を好意に思う尊敬】
これはその人が暴行・殺人など、よほど自分の倫理に欠ける行為を行わない限り、全ての人に尊敬の念を抱けば一番平和を感じるんじゃないか?しかもそれは別に無理して万人を尊敬しているわけでもなさそうである。
【後者:目標にしたい尊敬】
後者は『自身の向上のため』に尊敬の念を利用するので、
尊敬すること自体が目的になって身動きが取れなくなったら本末転倒。
だから目標にしたい尊敬をする人を絞ればよい。
だいたいひとつの目標にひとりくらいならいいんじゃないか?
というのが、考察の結果である。
つまり言いたかったことは、
①「<尊敬の念>とは自身が生きていくための道具である。と考えてみれば良い」
②「<尊敬>とは所詮手段なので、無理して尊敬したり、尊敬することに囚われてはいけない」
ということなのである。
以上(所要時間一時間強)。