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Rewrite 好きなシーン

いうまでもなく俺は素人で、独力でこの状況を脱する術はない。
唯一、ウリと言えるものはオーロラだけだ。
念じれば何かと引き替えに力を与えてくれる。
俺はその力を行使することを、心のどこかで恐れていたし、卑怯だとも感じていた。
でももう、そんなことは言っていられない。
人間、誰だって自分の得手を最前面に押し出して、生きていくしかない。
自分に抗った者は、結果は伴えない。
俺は、この力を受け入れるべきなんだ。
それは俺の実力でもないし、努力の結果でもない。
ただ持って生まれただけのものでしかない。
努力して英雄になれれば、それは良い。立派なことだ。
でも…俺は立派になるために生きているわけじゃない。
俺は安易な卑怯者になる。
今、真実、そういうものになる。
その覚悟が心の底からできた。
何者かになるとは、そういうことだと信じた。

『Rewrite』(2011)

このシーンは朱音ルート中盤のシーンだ。ルート中盤、主人公天王寺瑚太朗は「鍵」を巡る洲崎グループ・ガーディアン・聖女会の三つ巴の抗争に巻き込まれる。聖女である朱音に与する瑚太朗は「鍵」を確保し、援軍と合流しようとする。優秀な魔物使いである幼い次代聖女候補しまことともに何とか逃げ切れそうなところまで来るが、ガーディアンの精鋭に阻まれ、しまこも倒れ窮地に追い込まれる。このシーンは主人公が事態を打破するために「リライト能力」を発動するシーンだ。

「リライト能力」は文中にある通り、望んだ分だけ身体能力を向上させる便利な「チート能力」というところで、とくに朱音ルートを含む個別ルートにおいては殆ど代価なしに発動可能な状態にある。

朱音ルートの魅力は主人公の覚悟が決まっていき、殺人すらいとわなくなる瑚太朗の成長がみれるところだろう。このシーンも彼の覚悟が決まっていくシーンのひとつだ。

個人的に好きなところは、「チート能力」を与えられた時の心の機微の描写の上手さだ。

「チート能力」をテーマにした作品においては、主人公が躊躇なくその力を行使し、勝利する快感をテーマにするものが多い。しかし実際問題社会の中で生きていくうえで、チート能力というものが与えられたとき、人はどのようなことを想って能力を行使するだろうか?

実際のところチート能力を大っぴらに使うことはないのではないだろうか?「チート」というほど強い力は人々から嫉妬を受け、周囲との軋轢を生むはずであり、多くの賢明な人間はそのような力を持っていること自体を隠すだろう。

人々は「正しい努力の結果、正しい成果を得た」という道徳的なサクセスストーリーを好む。逆にいえば成功の背景に「持って生まれたもの」がある場合、その成功は不正だとすら言われる。社会に認められるためには「以て生まれた能力を前面に押し出して戦う」ということは忌避されることである。

作中で瑚太朗は能力を持っているがゆえに疎外感を覚えており、能力抜きの繋がりを求めていた。彼にとって能力を前面に押し出すことは、社会とつながる欲望を断念することである。彼自身、能力なしでのつながりという理想をどこか捨てきれないところがこの段階ではあったのだろう。

「何者かになるとは、そういうことだと信じた。」とあるように、彼自身その断念を納得しきれていない。しかし大切なものを守るためには、未だに捨てきれない理想を断念することが正しいのだ――そのような祈りを込め彼は能力を行使する。

実際のところ多くの場合、成功者と落伍者の間を隔てるものは、持って生まれた才能・地位・環境である側面ことは多い。勝つことが目的であるならば、他人が「チート」と思うことすら前面に出していくしかない。

社会的動物である人間は、道徳的勝利を求め、「自分に抗」ってしまう。そして挫折する。反道徳的存在である自分を受け入れ、目的の為にコミットするという成熟を描くこと、これこそ朱音ルートの魅力であり、『Rewrite』という作品の美しさであると思う。



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