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「光あるうちに光の中を歩め」あるいは、まだ見ぬあなたへ

今、人生の新しい選択をしようと考えています。「わらしべ人生」を名乗っていて大体は巡り合わせにしたがっている私ですが、今回の選択は自ら道を開こうとしているところがあります。

ここ数年その上を歩いていたまっすぐな道を捨てて、道端のやぶに入っていこう、そういう感じです。もしかしたらそこにはきれいな湖でもあるかもしれない。

まわりの人は誰も知らないけれど、そこは私にとってはまったく見知らぬ土地ではなく、自分の人生にまとわりついた糸をたどっていくような旅になるかもしれません。

自分の中ではまだ頭がよく整理できないものの新しい進路にも自分の内的な理由がありそうなのですが、それを他の人に説明するのは複雑で説明しても理解されないように感じています。

これまで長い間、あるいはこの何年か一緒に歩いて来てくれた友人たちといったん別れ、ひとり歩いていくのは不安ばかりです。新しい場所でも同じように友人ができるかもしれませんが、それはすぐではないでしょうし本当にできるのかも分かりません。これまで同じ道を歩いていた友人たちはなぜ私が別の道を歩むか分からず私を見捨ててさっさと歩いて行ってしまい、もう二度と会うことができないかもしれません。

この文章を書こうとしてタイトルを考えたとき、ふと思い出したのが昔読んだ、トルストイの「光あるうちに光の中を歩め(Ходите в свете, пока есть свет)」という小説でした。もう20年以上前に読んだと思いますので、タイトルと、感動した記憶だけ残っていて内容は忘れてしまっているのですが、何度か躊躇したあげく原始キリスト教の教団に入ってゆく男の話です。タイトルは旧約聖書の言葉から取られており、そこでの「光」というのはキリスト自身のことを指しているそうです。

私は宗教に入っていくわけではないですけれども、心の奥からの声を聴いてその声が指し示す方向に進もうという今の気持ちが、この小説の主人公と重なるところがあるのかもしれません。

やぶをかき分けて進んだ先に、東山魁夷の描いたこのような湖があればいいですが、そんなすばらしい結果は待っていないでしょう。やぶの先に開けた土地があり、そこで一息つければそれで十分。そんな気持ちです。

トルストイの「光あるうちに光の中を歩め」については、つぎの紹介をどうぞ。


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