見出し画像

2 アッカド王朝


概略年表

  • 前2340年頃:ウルク王エンシャクシュアンナがアッカド及びキシュを討伐

  • 前2334年頃サルゴンがキシュから独立し、アッカド王朝を樹立

  • 前2290年頃:ウンマ王ルガルザゲシがシュメール地方を統一

  • 前2285年頃:アッカド王サルゴンがルガルザゲシを破り、シュメール・アッカド地方を統一。四方に領土を拡大

  • 前2254年頃:アッカド王ナラム・シンが即位。シュメール諸都市の反乱を鎮圧し、「四方世界の王」を自称しつつ自らを神格化。更に西方のエブラなどを征服

  • 前2217年頃:アッカド王シャル・カリ・シャリが即位。グティ人やアムル人らが侵入し、領内は混乱状態に

  • 前2154年頃:アッカド王朝がウルク王ウルニギンに敗北。アッカド王朝は滅亡


1.アッカド王朝の創始

 メソポタミア南部のシュメール地方でウルク、ラガシュやウンマなどが果てしない戦争を繰り広げていた頃、その北部ではシュメール人とは異なる民族であるセム人が勢力を拡大していた。

 そもそもセム人が作った都市国家キシュこそが、メソポタミア南部においては最初の覇権国家であった(前2900年頃)。しかし、その後は新興のウルやラガシュに覇権を持っていかれ、最後にはウルク王エンシャクシュアンナにキシュは破壊された(前2340年頃)。

 だがそのキシュの破壊は、キシュの従属下にあったアッカド人の台頭を招く。未だにアッカドの詳細な場所は分かっていないが、シュメール地方よりも北部、アッカド地方にあったことは間違いない。キシュ王ウルザババから独立し、セム語系のアッカド人の王朝を作ったのがサルゴンである。

上図:伝サルゴン王頭部像

出典:Wikipedia

 前2334年頃、アッカド王朝を樹立したサルゴンは周辺地域の平定を進め、メソポタミア南部(バビロニア地方)の北部を統一する。ちょうどその頃には、シュメール地方もウンマ王ルガルザゲシによって統一された(前2290年頃)。

 「国土の王」を名乗り、統一者としての力を誇示するルガルザゲシに対して、サルゴンは戦いを挑む。子飼いの常備軍と短弓の威力を以て、サルゴンはルガルザゲシを降し、そのままシュメール諸都市を征服する(前2285年頃)。ここに、シュメール・アッカド地方はサルゴンという一人の王のもとに統一され、彼は「全土の王」を名乗った。

 その後もサルゴンは精力的に勢力拡大を続け、メソポタミア北部や東隣のエラムをも版図に加える。34回の戦闘で勝利したと後に豪語したサルゴンであったが、征服されたシュメール地方がそのまま黙っていたわけではなかった。

上図:アッカド王朝の版図

出典:Middle_East_topographic_map-blank.svg: Sémhur (talk)derivative work: Zunkir, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で


2.サルゴンの後継者たち

 サルゴンの死後、後を継いだのはリムシュ王であった。しかし、サルゴンという強大な王を失ったアッカド王朝に力はないと判断したのか、シュメール諸都市が一斉に蜂起する。また、サルゴンが平定したエラム地方も離反した。

 しかし、リムシュ王はそれらの反乱を鎮圧していき、全エラムの宗主権を得たという。だが、サルゴン亡きアッカド王朝を守り抜いたリムシュは家臣に暗殺されるという非業の最期を遂げた。

 この後、マニシュトゥシュが即位し、対エラム戦争を継続する。彼の代にはイラン高原の奥深くやペルシア湾岸の諸都市にも進撃するなど、アッカド王朝は拡大を遂げ、エラムの服属にも改めて成功した。だが、国内が本当の意味で鎮静化したわけではなかった。


3.神となった「四方世界の王」

 前2254年頃、アッカド王朝第4代のナラム・シン王が即位した。しかし、代替わりのタイミングでキシュとウルクが共謀して、シュメール諸都市全てが反乱を起こす。だが、彼らが対したナラム・シン王は凡百の王ではなかった。

 ナラム・シンは即座に鎮圧に乗り出すと、1年の内に9度の戦いを行い、反乱を鎮圧。キシュは水攻めにされた。ナラム・シンの活躍でアッカド王朝はシュメール地方の維持に成功したのである。

 自信をつけたナラム・シンは「四方世界の王」という新たな称号を名乗り、以前の王とは異なることを示す。しかもそれだけに留まらず、メソポタミア史上初めて、自らを神格化した。今まで自らを神とした王はメソポタミアにはいなかったのである。

 神としての自負をもったナラム・シンの目は西方に向けられる。交易で繁栄していたシリアのエブラ王国、シュメール地方にとっては希少な杉を有する現在のレバノン地方。西には豊かな地域が広がっていた。

 領内の安定を取り戻したナラム・シンの軍勢は西へ向かって勢いよく進んでいく。エブラは焼き落ちた末に征服され、アッカド王朝の勢威はレバノン地方にまで及んだ。また、アナトリア南部にも進出したと考えられ、メソポタミア北部の交易ルートをアッカドが掌握したことになる。

 また、ペルシア湾を越えてマガン(現在のオマーン)にも派兵するなど、ナラム・シンはまさに祖父サルゴンをも越えた征服者であった。

上図:ナラム・シンの治世におけるアッカド王朝の版図

出典:カタロニア語版ウィキペディアのJolleさん, CC BY-SA 3.0 <http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/>, ウィキメディア・コモンズ経由で

上図:「ナラム・シン王の戦勝碑」。左に刻まれたナラム・シン王は弓を用いている

出典:Wikipedia


4.だれが王であり、だれが王でなかったか

 自ら神となった、「不遜」な王ナラム・シンが没すると、アッカド王朝は急速に衰退していく。版図を拡大することは困難だが、急速に膨張した版図を支えていくことはより困難を伴う。各地での反乱とともに、異民族が侵入を繰り返す。

 すでにナラム・シンの治世からアナトリアの諸王達は反乱を起こしていたし、ナラム・シンの死後にはその臣下が謀反を起こしている。そうして、領内の統治が緩む内に、異民族を迎えうたなければならなかった。

 内から外への拡大が容易いということは、逆に言えば外から内への侵入も容易ということである。エジプトやインドと違って侵入経路が複数あるメソポタミアを防衛することは容易いことではない。この時も、アッカド王朝はメソポタミアの東に広がるザグロス山脈のグティ人やイラン高原のエラム人、西のアムル人など、多くの外敵の侵入を受ける。

 これら複数の民族と相対したのが、シャル・カリ・シャリ王である(前2217年頃即位)。彼は多くの異民族と戦い、特にアムル人に関しては撃破することに成功したらしい。しかし、グティ人の勢いは凄まじく、シュメール地方への侵入を許してしまった。すると、もともとアッカド王朝へ離反の意思を捨てていなかったウルクやラガシュなどの諸都市はグティ人の支配下でアッカド王朝から独立。王朝の領土は急速に縮小した。こうした混乱状態のことを、当時の記録では、「だれが王であり、だれが王でなかったか」と記している。

 諸都市の独立に続いて、北方ではフルリ人のアタル・シェンが強大な王国を建設(前2200年頃)。もはやアッカド王朝は首都周辺の小勢力として存続する以外の道はなかった。前2193年頃にはシャル・カリ・シャリも殺害される。

 そして、南部で勢いをつけたウルク王ウルニギンにアッカド王シュ・トゥルルは敗北(前2154年頃)。アッカドの政庁がウルクに遷されたことで、アッカド王朝は名実ともに滅亡した。だが、アッカド亡き今、メソポタミアの覇権を握るような勢力は未だ存在せず、しばらくメソポタミアは混沌に包まれたままであった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?