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1 シュメール人の都市国家


概略年表

  • 前3500年頃シュメール人都市国家が確立され始める

  • 前3000年頃:メソポタミアにて青銅器が普及

  • 前2900年頃:シュメール地方が初期王朝時代に突入。各都市国家の覇権争いが激化。初期の覇権国家はキシュであったか

  • 前2750年頃ウルクギルガメシュがキシュを破ったか

  • 前2500年頃ウルメスアンネパダが覇者を示す「キシュの王」を自称

  • 前2500年頃ラガシュにてウルナンシェ王朝が成立。ウンマとの戦争が始まる

  • 前2450年頃:ラガシュ王エアンナトゥムがウンマ率いる諸都市連合軍を撃破。自らを「キシュの王」と宣言

  • 前2400年頃:ラガシュ王エンメテナがウンマ軍を撃退し、ウンマの独立を奪う

  • 前2400年頃:ウルク王ルガルキニシェドゥドゥがウル王を兼ねる

  • 前2340年頃:ウルク王エンシャクシュアンナがキシュを占領

  • 前2290年頃ウンマルガルザゲシがラガシュを破壊し、シュメール地方を統一

  • 前2285年頃アッカドサルゴンがルガルザゲシを破り、シュメール・アッカド地方を統一


1.都市国家の誕生

 およそ700万年前、アフリカ大陸で誕生した人類は様々な苦難を乗り越えて世界中に拡散した。様々な種が生まれては消えていき、生き残った種はさらなる進化を遂げる。そうして誕生したのが、ホモ・サピエンスである。ホモ・サピエンスは苛酷な環境を生き残るために道具などの工夫をこらしながら、やがては農耕牧畜の技術を習得する(獲得経済への移行)。当初の農耕は雨水に頼る簡単なものであったが、その技術に更に磨きをかけていき、やがては灌漑農業の技術を発明した。

上図:人類の拡散。図中の数字の単位は千年前

出典:User:Dbachmann, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で

 そうした高度な技術を持った人々がメソポタミア(概ね現在のイラク)の南部で、より高度な文明を作り上げる。その担い手がシュメール人であった。メソポタミア最南部(シュメール地方)は資源に乏しく、また簡素な農耕では満足に生活できなかかった。そのため、彼らは集団での協力を余儀なくされ、周辺地域との交易を盛んにした。交易の発達により資源が豊かに手に入るようになると、神殿がその資源を集積する役割を担う。そしてその神殿を中心に都市が生まれ、やがてはその都市をまとめる者、即ち王が生まれた。前3500年頃、シュメール地方に都市国家が誕生する。

 一方、灌漑農業の発達に伴う生産量の向上によって、人々は必ずしも全員で農業に携わる必要がなくなった。農業に携わらない階級が生まれたのである。それが祭司であり、戦士である。資源が豊富にあるということは、それを狙うものも現れるということである。そうした不届きな者達、つまり他の都市などから資源を防衛するのが戦士の役割である。そして、この戦争状態を更に加速させたのが技術革新であった。

 前3000年頃、銅と錫を合わせた合金である青銅がより人々の間に普及した。新たな素材の普及は人々の生活を豊かにするだけでなく、新たな戦争の道具をもたらすことになる。青銅製の武器・防具の誕生である。より容易に他者を殺傷できる道具は、戦争をより激しく、手頃なものとした。そして、前2900年頃にはシュメール地方は本格的な戦国時代を迎えることとなる(初期王朝時代の始まり)。


2.シュメール戦国時代

 こうして、シュメール地方には多くの都市国家が生まれたわけであるが、最初に覇権を握ったのはシュメール人の都市国家ではなかった。最初の覇権国家とは、シュメール地方の北部にあったセム人の都市国家キシュである。

上図:シュメール地方の都市国家

出典:Wikipedia

 この頃の都市国家は当然のことながら、文字資料に乏しく、実在した王名などは定かでないことが多い。そのような中で実在がわかっている最初期の王がキシュ王メバラシである。

 キシュ王メバラシは隣国イランのエラム地方に侵攻し、そこにあった文明を崩壊に追い込んだと言われるが、シュメール地方に留まらないキシュの影響力の強さがうかがえる。

 メバラシの子アガは後に作られたギルガメシュに関する叙事詩にも登場し、ギルガメシュに敗れたと記されている。メバラシが実在するならば、アガやギルガメシュも実在する可能性がでてくる。そして、このギルガメシュが治めたというのが、シュメール人の都市国家ウルクである。

上図:ギルガメシュ

出典:Wikipedia

 ウルクはシュメール文明の最初期から存在する強力な都市国家であった。叙事詩の中では、キシュ王アガがギルガメシュに従属を迫ったが、それを拒んだギルガメシュがアガを破ったという。勿論、叙事詩という創作の中の出来事であるから、実際の歴史は分からない。しかし、ウルクがキシュを破るというのは後の歴史を考えても不可能ではない。ただ、史実ではこの後もキシュは強力な力を持ち続けた。

 キシュやウルクなどで王権が更に強大化していく中、メソポタミア最南部ではシュメール人の都市国家ウルが飛躍の時を迎えていた。ウルの遺跡で発見された王墓からは、黄金製の短剣や当時の歩兵や戦車を描いた木製の箱(「ウルのスタンダード」)が出土しており、往時のウルの繁栄がうかがい知れる。

上図:ウル王墓出土の黄金の短剣

出典:Wikipedia

上図:「ウルのスタンダード」

出典:Denis Bourez from France, CC BY 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/2.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で

 ウルの繁栄と同時期のキシュは、後に覇権を握る都市国家ラガシュなどを従属させており、やはり強大な力を握っていた。この頃の王メシリムは最初の覇者とも言われる。

 しかし、どうやら前2500年頃になるとその力を失っていたようであり、ウル王メスアンネパダは「キシュの王」を名乗っていた。この「キシュの王」こそ、シュメール地方の覇者を示す称号である。


3.ラガシュ・ウンマ戦争の始まり

 前2500年頃、都市国家ラガシュではウルナンシェ王が即位した。彼は自らの王権を確立し、自らの子孫らに王位を伝えることに成功する(ウルナンシェ王朝)。このラガシュ最大の敵は隣の都市国家ウンマである。

 ラガシュとウンマの最大の懸念は、肥沃な耕地グエディンナの領有権である。ウルナンシェ以前から両国は争っていたが、ついにウルナンシェの治世にウンマのウシュ王がラガシュに全面侵攻を開始する。この戦いの決着は明確でないが、この先も戦いは続くことから双方共に決定的な勝利は得られなかったのだろう。

 ラガシュ・ウンマ間の戦いが更に全面的なものとなったのが、ラガシュ王エアンナトゥムの治世である(前2450年頃)。ウンマはラガシュを打倒すべく、ウルク王ルガルキニシェドゥドゥやウル、キシュ、更にはシリアの都市国家マリなどと連合軍を結成し、ラガシュに攻め込んだのである。

 しかし、エアンナトゥムはこの強大な連合軍を撃退した。戦闘の詳細は明らかでないが、当時のエアンナトゥムが率いた軍隊の様子は石碑に残されている。密集隊形を組んだ軍勢同士の決戦が行われたのだろう。ウンマの連合軍を打破したエアンナトゥムは勢いそのまま、東のエラム人さえも征服した。だが、どうやらウンマを征服することはできなかったようで、ウンマとは国境を元に戻す協定を結んでいる。

上図:「エアンナトゥム王の戦勝碑」表面

出典:Sting, CC BY-SA 3.0 <http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/>, ウィキメディア・コモンズ経由で

 確かにエアンナトゥムはウンマの征服を果たせなかったが、偉大な征服事業から「キシュの王」を名乗ることとなった。間違いなく、ラガシュこそがシュメール地方最強の覇者となったのである。だが、この時にウンマを滅ぼせなかったことが、のちにラガシュの危機を招くことになる。


4.覇権を目指す者達

 最強の王エアンナトゥムが没すると、ウンマは再びラガシュを攻撃した(前2400年頃)。当時のウンマ王はウルルンマ。またも諸都市を率いての攻撃である。以前のような連合軍撃退はエアンナトゥムであればこそできた覇業であって、この頃のラガシュ王エンアンナトゥム1世に抗う力はなかった。なすがまま、ラガシュ王は敗死する。

 勢いにのるウルルンマは「すべての王」を名乗り、シュメール地方征服の心意気を高らかに宣言した。一方、滅亡の気運すら漂うラガシュを救ったのは後継者エンメテナ王であった。彼はルンマギルヌンの堤にてウンマ軍と対峙し、ついにこれを破ったのである。

 エンメテナは直ちにウンマの独立を奪い、100年以上続いたウンマとの戦争に終止符を打つことができた。しかし、こうしたラガシュとウンマの果てしない戦いの裏で、勢力を拡大していた勢力がある。

 それが、ラガシュ王エアンナトゥムの治世にウンマと共にラガシュを攻撃したウルク王ルガルキニシェドゥドゥである。彼はエンメテナと同盟を結び、自らの勢力圏拡大に勤しんだ。結果、彼はウルク王でありながらウル王をも兼ね、更にはニップルにも手を伸ばす。

 このように、ウルク、ウンマ、ラガシュの三国はそれぞれが勢力圏拡大を目論み、自らの都市国家に飽き足らずに他の都市国家をも従える姿勢を見せていた。多くの都市国家が互いの命運をかけて戦う時代は終焉に近づき、強力な領域国家が打ち立てられようとしていた。


5.ルガルザゲシの統一

 エンメテナの活躍により、危機を脱するどころかウンマを打倒することに成功したラガシュであったが、その死後、あまり時間を経ずにウルナンシェ王朝が断絶してしまう。

 ウルナンシェ王朝の後は傍系と思われる王が後を継いだが、やはり勢力の衰退は免れなかった。この機を逃さなかったのが周辺勢力である。特にウルクはエンシャクシュアンナ王のもと、北方に勢力を拡大し、キシュ王を捕らえ、キシュそのものの占領にも成功した。最初の覇権国家もその衰勢は明らかであった。

 一方で衰退著しいラガシュでは、軍司令官と思われるウルイニムギナがクーデタで王位を簒奪した(前2300年頃)。危機的状況を見るに堪えなかったのかもしれない。しかし、クーデタが国内の混乱を招くことは明らかである。恐らく、その混乱の隙をついたのであろう。このクーデタから余り時間をおかずに、ウンマが復讐戦を挑んできた。

 ウンマを率いるのは王ルガルザゲシ。彼はラガシュを即座に打倒し、破壊することに成功した。そして、新たな覇者を目指したウルクをも倒し、ウルの征服にも成功した。ここに、シュメール地方の統一が果たされたのである。

 こうしてシュメール地方最初の統一者となったルガルザゲシは満を持して、ウルク王となり、「国土の王」を名乗った。こうして数百年近く、メソポタミア南部で続いた戦国時代はここに終わりを迎えたはずだった。


6.最終的な勝者

 しかし、ルガルザゲシは南部に注力する余り、北部への警戒が薄れていたのかもしれない。かつてキシュに服属していた勢力にアッカドというものがあった。ウルク王エンシャクシュアンナによる北部征服の際に、キシュと共に打倒されていたが、このキシュが衰退した時期に恐らくアッカドはキシュから独立した。そして、このアッカドの王がサルゴンという者であった。

上図:伝サルゴン王頭部像

出典:Wikipedia

 アッカド王として独立の道を歩み始め、シュメール地方の北部でその勢力を固めたサルゴンは、統一を達成して絶頂期にあったルガルザゲシに決戦を挑む(前2285年頃)。通常、こうした絶頂期にある征服者に戦いを挑むことは危険極まりない。しかし、サルゴンには切り札があった。それは世界最古とも言われる5400人の常備軍と短弓部隊である。

 シュメール人の基本的な戦闘部隊は先程述べたように、歩兵の密集部隊である。これに対し、アッカド軍は短弓を用いていた。歩兵部隊が弓兵に敗れ去る事例は後世にも見られる。この両雄の決戦がどのように行われたか定かでないが、シュメール地方では余り一般的でなかった短弓が歩兵に対して脅威となった可能性は十分にあるだろう。

 そして常備軍はサルゴンに忠誠を誓い、戦闘技術の高い兵士で構成されている。対して、ルガルザゲシは半ば強引な征服活動によって広大な領土を統一したばかり。ルガルザゲシ軍は諸都市連合軍で統率が十分ではなかったのかもしれない。

 結果、アッカド王サルゴンにウルク王ルガルザゲシは敗北した。ルガルザゲシは捕虜とされ、古くからその勢威で知られた諸都市国家も次々と征服された。昔から勢力を誇っていたシュメール人は突如現れたアッカド人に征服されてしまったのである。つまり、シュメール人の戦国時代、その勝者はシュメール人ではなく、アッカド人であった。

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