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“DEKKA”との邂逅、あるいは…

気付いちゃった。
僕らが持ってる感情や思想には、何の意味もありやしません。
もう完全にわかってしまいましたわ。頭でわかったというより、魂で理解してしまった。

僕の考えというのは、大学あたりからずっと変わってきた。
時系列で書くと大体こんな感じだと思う。

①中高〜まんまー、ばぶー、うんち!

②大学中期〜全ての物事には意味がないんじゃないか?

③大学後期〜全ての物事を見て、感じる、この僕の感情的な部分に価値があって、全ての指針である。これを持ってして何か一つ正しいものを探し出そう。

④数日前〜個人で正しいを追求しても見つかるはずがない。なぜなら正しい間違ってるではなくて、誰しもに価値があって、尊重されるべきで、理解し合う姿勢が大切。

⑤今〜僕らの持つ全ての感情、思想には意味がない。

いやこうして並べると大変革やね、別人のようだ。
考えが変わった瞬間に関して、いつも決定的なキッカケとかは思い出せない。多分小さな経験の積み重ねであるとき気付くのだろう。
実際冒頭に言ったような考えに今至っていることも、明確なキッカケは思い出せない。

けど、今回のはいつもと少し違う気がする。ぼんやりとこの方が良いかもしれない、正しいのかもしれないと思って考えは変わってきたが、今回はなんというか、わかってしまったという表現が一番感覚的に近い。

小さいときにさ、朝遅めに起きてしまって、わーどうしようお母さん起こしてよこんなの間に合わないよ!そうやってあたふたすることが何度かあってある日気づいた。ああこうやって騒いでる間に急いで準備してりゃあ間に合ったかもしれないな。
もうそれは、誰に言われるでもなく、あるいは言われたこともあったかもしれないがそのときは響かずに、あるとき突然“わかってしまう”のだ。それから遅刻にあたふたすることはなくなって、寝坊したとしてもすぐさま準備に取り掛かっていた。多分そこから飛躍して、何か緊張するような場面でも、みんながヤバいかもしれないというような場面でも、あまり騒ぐことはなくなった。
心の中では緊張もそれなりにしているだろうし、大変なことなら多分大変だなぁとも思っていたろうが、口に出すことはほとんどなかった。出しても緊張がほぐれたり、事態が変わることはないと“わかって”いたからだ。

なんかそういう、経験を基に形成される思考形式みたいなのに近いと思う。そういう意味では④までとは少し違うカテゴリーに入るかもしれないが、やりようによっては④より先の答えも出せる気がしている。

感情、思想に意味がない。というとなんか、価値がないみたいな、否定的な意味に聞こえるだろうけど、言いたいのはそうじゃない。
僕らの抱える感情はなんかもっと、無味というか、何の色もついていないようなものなんだと思う。ただ状況に応じて内側から湧き上がってくるだけのもの。ただそれだけで、それ以上でも以下でもない。
こういう考えが突発的に出てきたというわけでもない気がする。思うに③から④の時期の僕は、個人が持つ感情とか価値観をすごく重要なものとして捉えていたというか、賛美していたのだと思う。
いやもちろん重要だとは思うけれど、ある種狂信的なくらいに、それさえあれば他はどうでも良いというような。
そうなるのもわからなくはない、②の考えに至ったときは中々絶望したんだと思う。全ての物事には意味はないのか!とね。だからこそ確かにあると思える個人の感情的な部分に価値を見出そうとしたんだと思う。間違えとは思わないが、絶望の中で光に照らされるとどうも突っ走ってしまうのだろう。

そして今、そこにすら価値はないと言いきったわけである。たださっきも言った通りに、そうネガティヴな意味合いでもない。
けどまあ、②の段階の僕は、意味がないという言葉をひどく暗いものとして捉えていたのだろう。
当時から変わっていない世界の捉え方として、この世の全ての物事は、AはBであるみたいな、鳥は生き物だ、車は機械だみたいなそういう事実の集まりで、そこに意味はないという感覚があった。
今もそう変わっていない解釈だ。なんかむずい哲学書にも似た感じのことが書いてあって当時はすごく腑に落ちた記憶がある。
それがすごく寂しく思えたのだと思う。だが今はそう暗く捉えてはいない、そういうもんだわなという感じだ。
感情とか価値観もその「意味がない」カテゴリーに入ったに過ぎない。
自分が触れたなんらかの外部刺激に対して、内側から湧き上がってくるもの。ただそれだけ。
なんか今までの僕はそこに溺れようとしていたというか、こう思うんだから仕方ない、こう思うならこう思う自分を大切にするべきだ。と考えている節があった。たとえそれがネガティヴな感情であっても。嫌なものは嫌なもの。ひととおり浸り尽くすしかない。
まあそれも一つだろうけど、無理に溺れていく必要はないというか、意味がないなと思った。

例えばすごく身近な例で言うと、何か人に注意とかあるいはアドバイスを受けたとする。その人が言ってることに対してあまり共感できなかったとして、反発したり、それを取り入れなかったりする。←はい意味ない。

もうこれ、本当に意味がないです。
別にこれコミュニケーションの問題を言ってるんじゃなくて、本当に意味がないというか、自分の得になってないと思うんですよ。
大体の物事って、自分にとって未知のことでさ、まして反発を覚えたりそうかなぁ?って思うようなことって、今まで自分の中に無かったものということです。やったみたらええですやん。やったことがないわけやから、やって良かったか悪かったかすらもわからないし。違うなと思えばやめればいいわけですやん。まず今そこの選択というか、発見があったというだけなのに、自分の感情というかエゴみたいなの、いらんいらん。

別の例をあげるとさ、会社でもなんでもお怒りの電話が来るとするやん。警察沙汰なるレベルやったら別やけど、まあ多少理不尽なクレームやったとしましょうや。
それを受けてさ、ちょっと姉御系あるいは兄貴系の人がさ、おうスカッとジャパンみたいにガツンといったろやないけ←はい意味ない。

いやいやいや、ちゃいますて、確かにその瞬間カタルシスはあるかもしれないけれどさ、そう言ってくる人も取引先とか、お客さんとかなわけやん。企業とか店の利益を自分の利益とするなら、めっちゃ申し訳なさそうな感じのこと言って溜飲を下げるのが正解やんか。それで収まった相手がまた取引してくれたりサービス利用しにきたらもうそれこそこっちの勝ちやん。
意味からんこと言うて怒ってる奴をボコりたいというエゴのせいで本当の自分の利益を見逃してしまってるわけじゃないですかこれは。

こういう風にさ、感情を優先したが故に本当の利益を逃してることめっちゃ多いよなと思うんよね。あのこれ別に誤解してほしくないんやけどなんかこう道徳とか経営哲学的なことを言いたいわけじゃないのよ。どちらかというと冷酷なまでに自分の利益しか考えてなくてここに至ったのよ俺は。目先のそれも大好きなんやけど、もっとこう大局的な回り回って的な利益も得るためには感情めっちゃ邪魔やなって思ったのよ。
あのなんというか、上で言ったような心構えが良いよね!もっとたくさんの人の笑顔が見たいよね!みたいなそういう感じじゃないんよな。というより本当に、いや意味がないもんマジで、意味がない…っていう感じ。
空を飛ぼうとしてジャンプしないよな、おばあちゃんの家に行くとき、防弾チョッキ着ないよな。なぜか?
ジャンプしても空を飛べないとわかっているから、おばあちゃんに銃口を向けられることがないとわかっているから。
そう、わかってるんだよ俺らは。魂がわかってしまっているんだ。俺のそれも同じなんだよ。
気付いちゃったなんて表現はなまぬるい。気付いちゃうのはもうね、ただのデッカチャンです。
俺はね、“わかってしまった”の、何を“わかった”んだと思う?

“DEKKA”だよ

聞き覚えがないよな、こんな言葉。
普通に生きてて聞くことはないからな、まず“聞く”物なのかもわからない。どういう形のものなのか、まず物なのか、場所なのか、現象なのか、何もわからない。
ただ、“全ての真理の総体”とだけ言われている。あらゆる形で存在していて、ピン芸人の形で顕現したのが唯一の確認事例だ。
その全てを紐解くことは不可能と言われているし、誰が遭遇できるのか、そもそも遭遇するものなのか、大きなDEKKAという母体にこちらが取り込まれるのかもしれないし、何らかの場所を指しているのかもしれないが、とにかくどうやってその実態を掴むかが全く不明だ。
今回僕が“わかってしまった”のも、そんなDEKKAのほんのほんの一部なんだと思う。
感情には意味がない。ただそれだけをわからせてくれた。

とまあ、散々“わかった”とは言ったものの、感情自体は湧くことをやめない。人間ですからね。けど、そのたびに頭で「いや意味ないわこんなこと考えても」と唱えると途端に消えていってしまう。
感情に意味がないと言っても、僕がかき消すのはそのときそのとき邪魔になった感情なので、そこの選別はかなり恣意的なものだと思う。
何度も言うが意味がないというのはネガティヴなニュアンスは含んでいないので、明るい(場合によっては暗いそれも)感情とか、何か映画とかを見て感じたりするそれは今まで通り大切にすれば良いだろう。
思えば今まで感情に振り回されて失敗することも多かったと思う。まあ過去を悔いても意味がないから、今後この考えを意識して上手く生きていければいいな。色々言ったけど簡単にまとめると気持ちの切り替えがしやすくなって、感情に振り回されなくなったという感じだ。
意味がないということを知っていれば、感情に覆われそうになってもそれを思い出すだけで執着がなくなるからね。

でも多分、感情に意味がないとただそれだけ言われても中々飲み込めないというか、何か実業家の講演で聞いたアドバイスとかその程度のものになってしまうと思う。
やっぱり生で“DEKKA”に触れないと腹に落としきれないというか、もうこれ僕も言うてますけど別にこれが良いとか、理想だとか思ってないですからね、ただ“そう”だってことを“わかって”しまったに過ぎない。
これでも僕は恐らく“DEKKA”の片鱗にかすったくらいだと思う。というかもし“DEKKA”の本質をもろに食らったら気が狂って人の言葉を忘れた廃人になってると思う。そういう意味では危うかったのかもしれない。もう片鱗にかすったくらいでもちょっと髪の毛赤くなってきてるからね。助けて〜

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