【ぶんぶくちゃいな】大規模デモから5年、変わり行く香港の政治システム
今年6月4日は1989年の天安門事件発生から35周年にあたった。
その翌年の1990年から毎年この日、事件の犠牲者追悼と血なまぐさい鎮圧に抗議する集会が香港で開かれてきた。長年のうちに出席者の数も毎年かなり増減しつつも、20年、25年、30年などの節目には必ず目立ってその数が増え、人々が決して「忘れていない」ことを示してきた。そして毎年の出席者数の増減は市民の香港及び中国政府に対する不満のありようを示すバロメーターだともみなされてきた。
わたしは長年、この日、あるいは同様のバロメーターとされる7月1日の主権返還記念日に行われるデモのどちらかには必ず顔を出すようにしてきたが、そうした「定点観測」を繰り返していくうちに次第に「時代の変化」を目にする場にもなっていった。
特に感慨深かったのは2000年代後半頃から、天安門事件追悼集会に集まってくる人たちの中に制服姿の中高生をよく見かけるようになったことだった。彼らは学校帰りの物見遊山で参加しているわけではなく、小さい頃から親に連れられて集会に参加してきた結果、成長して一人で自由に自分の時間を使えるようになってからも、この集会の参加は自然の成り行きとして彼らの行動に組み込まれたのだった。
亜熱帯の6月はすでに30℃を超える暑さだ。その中で昼間の熱気をしっかりと取り込んだ、ビクトリア公園のバスケットコートに万単位、いや数十万単位の人たちがびっしりと肩を寄せあうと、8時の集会開始を待つ間だけで汗ぐっしょりになる。
そこに汗で髪の毛を額に張り付けた、制服姿の若い学生たちが参加しているのはある意味感動的な光景だった。彼らの親たちも会場のどこかにいるはずだが、それと別に、自らの意志で、同級生とともに、あるいは自分一人でそこに参加している我が子の姿は、そんな親たちにとってどれほど誇らしいことだろうと考えたりもした。
そして、その子たちは成長し、大学生になり、社会人になり、こうした運動とその意識を継承していくはずだった。
実際、同集会を1990年から主催してきた香港市民支援愛国民主運動聯合会(以下、「支聯会」)の元副主席、鄒幸トンさん(「トン」は「丹」にさんづくり。以下、「鄒さん」)は1985年生まれ。天安門事件は彼女が4歳のことだったが、毎年母親に連れられて集会に参加し、2010年から支聯会の活動にボランティアとして参加するようになったという。
その集会も5年前の2019年に30周年集会を最後に開かれなくなった。支聯会は2021年、当局に「香港国家安全維持法」(以下、「国安法」)違反の「外国勢力の代理人」とみなされて会員名簿などの「関連資料」の提出を求められたが、鄒さんは「我々は外国勢力の代理人などではなく、それを証明するための関連資料など持ち合わせていない」として要求を拒絶。その後、支聯会幹部はこの事件によって逮捕され、さらに鄒さんは2020年、2021年に警察が開催を許可しなかった天安門事件追悼集会を「違法に呼びかけた」として収監され、また支聯会も2021年9月に解散に追い込まれた。
それ以降、6月4日はそれにまつわる一連の出来事を振り返る日になってしまった。
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