【読んでみましたアジア本】中国から世界の潮流を読むヒントと話題がぱんぱんの一冊:梶谷懐、高口康太『幸福な監視国家・中国』(NHK出版新書)

北京に住んでいた時、タクシーの運転手に出身をきかれ、「日本」と答えたか、「香港」と答えたか、記憶にないのだが、こういうやり取りになった(北京のタクシー運転手は好奇心旺盛だと、だいたい上目でバックミラーを見ながら「どこの出身だ?」と尋ねてくる。多くの場合、わたしは「どこだと思う?」と相手に詮索させるのだが、即座に広東とか東南アジア系の国名をあげる運転手には、「香港人だよ」と言ってごまかすこともよくあった。運転手は同じ人間でも相手が華人のときと、ガイジン相手では話題も違うことがママある)。

運転手「オレたち、中国は5千年の歴史があるからね。悠久の文化を持つんだよ」

――…。おじさん、どこのご出身?

運転手「オレ? おれは生まれも育ちも北京だよ! 先祖代々ずっと北京っ子だよ!」

――ふぅん…5千年前の北京って、きっと草茫々の荒野だったはずですよ。人間もいなかったかも。

運転手「ん? なに言ってんだよ、もう中国の文明は生まれていたんだよ!」

――黄河文明のことでしょ? あれは黄河の源流の方の話ですよ。5千年か4千年かはわからないけど、たしかに世界四大文明といわれる黄河文明はあったけど、おじさんの先祖とはなんの関係もないっしょ。他所様のことですよ。

運転手「?!?!?!」

――当時は中国人って観念はなかったし、その後諸国が入り乱れて戦闘を繰り返して、どんどん侵略と併合が進んでいまのようになったわけよ。だいたい、もともと中国の歴史においては首都は西安や洛陽、開封だった時代が長く続いたわけで、北京は燕京と呼ばれるくらいだから燕の首都だった程度なんですよ。その燕も秦に滅ぼされて……つまり、あなたの血筋が本当に代々ずっと北京の人なら、あなたがたは「侵略されて併合された人たちの末裔」なわけ。5千年の歴史はあなたたちのものじゃなくてヒトサマのものなんですよ……。

…なぜ袖振りあった程度のタクシーの運転手にこんな話をしたかというと、彼が自分のプライドのよりどころを枝葉末節全部ぶっとばしてお上に言われて気取っているのをみて、ちょっとカチンときたからだった。「香港はイギリスという異族の支配下にあった」と言われたのか、それとも「日本は中国ほど歴史のある国じゃない」と言われたのかはまったく記憶にないのだが、日ごろ歴史がそれほど得意というわけではないのに、瞬発的にこういう話が口を突いて出てきたことにも我ながら驚いていた。

タクシーの運転手はきっと、わたしがなにを言おうとしているかわからなかったんだと思う。その後、じっと沈黙してしまった。

ここでなんでそんなことを思い出したかというと、この本ではまず、かの「悪名高き」中国の社会信用システムについて、テクノロジーの進歩によってもたらされる「幸福と自由のトレードオフ」的な視点から、中国で現実的に歓迎されていることを紹介していたからだ。

中国の人たちがその効用を素直に信じ、信じることで幸せになれる――それに対して、その先にある世界がディストピアかユートピアかなどと論じる権利はだれにもないのかもしれない、と感じた。一人の、もしかしたらただのお調子者なだけかもしれないタクシー運転手が自分たちの悠久の歴史を誇ることに、アカの他人が突っ込む権利なんて実はないのと同じように。

●参考になる、キャッチーな分析が随所に

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