【読んでみましたアジア本】読者がこの本を手にしたとき、ミステリーのトリックが始まる。:雷鈞・著/稲村文吾・訳『黄(コウ)』(文藝春秋社)

本当に偶然だったのだが、9月末の東京出張のとき、ちょうどその週末に台湾で「第6回島田荘司推理小説賞」の授賞式が開かれるんですよ、と耳にした。つまり、7人目の島田荘司さんのお墨付き中華ミステリ作家の誕生である(第3回にグランプリが2人出ているので、6回目の今回選ばれる人は7人目となる)。

この賞が日本で一般に知られるきっかけになったのは、2017年に香港のミステリー作家、陳浩基さんによる『13・67』が大ヒットし、同年の「ミステリーファンが選ぶ海外ミステリー」にも選ばれたことが大きい。陳さんは2012年の同賞二人目のグランプリ受賞者で、受賞作品『世界を売った男』は今年文庫化されていて、わたしも1月の「読んでみましたアジア本」でご紹介した。

正直なところ、『13・67』はわたしがかつて持っていたミステリ小説への関心をまた呼び覚ましてくれた。個人的には、そこに描かれている香港の街や歴史の一幕が、わたし自身の香港への郷愁をかきたててくれたことが大きいが、特に香港という土地に詳しい知識も、また思い出もないはずの「ミステリー好き」の人たちが絶賛するほどの作品であるという、客観的な評価の大きさもわたしを揺り動かした。

加えて、『13・67』の絶妙な和訳を担当した故・天野健太郎さんの存在を忘れてはならない。「ぶんぶくちゃいなノオト」でも配信した天野さんの単独インタビューは彼の突然の死をきっかけに多くの人に読まれる結果となり、彼の人となりをファンの人達にお届けすることができたのではないか。

一方で『世界を売った男』の翻訳者玉田誠さん、そして今回ご紹介する『黄』を翻訳なさった稲村文吾さん、という、これまでの中華本翻訳とはまったく違う世界を切り開くプロ翻訳者が出現していることは大変喜ばしい。

ただ、天野さんは「翻訳は作家に合わせている」と言いながら、日本語では通じない部分は「ごまかす場合もあるし、辻褄を合わせる場合もある」と言っていた。「おれはあくまでも作者のためじゃなくて、読者のために翻訳してる」と割り切った、良い意味での「いい加減さ」に追いついた翻訳はまだない。みんな、真面目なのだ。

真面目が悪いのではないことは、わたしも理解できる。漢字を使う中国語の翻訳はどうしても、「文字面が持つニュアンス」を伝えたいと思いがちだ。加えてちらりちらりと顔を見せる中華文人たちの古典引用や成語をいかにそのシーンに、異国人である日本人に違和感なく活かすかは、言葉がわかる分だけに翻訳者にとって苦しみどころなのだ。そこにおける取捨選択というか、諦めどころは今後も、流行文学として中国文学を一般の人に読んでもらうために翻訳者にとって最も重要な判断の分かれ道になる。いい加減さを隠そうとしなかった天野さんは、大変大きなハードルを生き残ったものに遺していった。

現実に翻訳者らの苦しみが見事に現れている好例が、今話題のSFミステリー『三体』の和訳構造だ。原著の基本和訳はまず中国語翻訳者らが手掛け、英語ミステリー翻訳者がそれをSFミステリーへと構成し直し、さらに別の中国語翻訳者兼小説家が監修するという複雑な翻訳を経て刊行されている。版元がここまで手をかけてでも邦訳を出そうとした価値が同書にはあったのは幸いで、その結果はすでに高評価となって現れている。

出版不況と言われる時代に、ここまで熱意と手間暇をかけて一冊の小説を世に送り出す出版社があることは、その意気込みを評価したい。それと同じ意味でこつこつと中華圏で書き続ける優良作品の掘り起こし、そして作家たちを激励し続ける島田荘司推理小説賞と関係者には心からの敬意を払いたい。

そしてこうした努力が今後も日本の読書市場で、また中国の作家群にとっても豊かな果実を結んでくれることを願ってやまない。

●見えない世界を生きる主人公、そしててんこ盛りの叙述

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