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小さな島の女の子が3浪しても医師になる夢を諦めなかった理由

今日は私が医師になる夢を諦められなかった理由をお話しします。ちなみに私の両親は全く医療と関係ない自営業です。

一番読んでいただきたいのは■父の命を救ってくれた医師との出会いのところです。長いのでそこだけでも読んでください🙇🏻‍♀️

■アフガニスタン

最初に医師を目指すきっかけは、アフガニスタンの紛争地域のドキュメンタリーを見たことです。当時小学校にも入学していませんでしたが、父もわざわざよくそんなものを幼い娘に見せたなと今となっては思います。

詳しい内容は覚えていませんが、同い年ぐらいの女の子が地雷で片足を失っていたり、裸足で歩いていたりしたことに衝撃を受けたのはしっかり覚えています。その時から誰かのために何かをしてあげられる大人になりたいと思っています。

■マザーテレサ

小学校に入り、私はマザーテレサの伝記を読みました。小さい頃から何となくやりたいと思っていたことを実際にしていたマザーテレサの存在を知り、彼女に関する様々な本を読むようになりました。そんな中、マザーと一緒に活動したいと集まる若者をマザーが母国に帰したというエピソードを読みました。

わざわざカルカッタに来なくても、それぞれの国の、それぞれの街の、それぞれの身近な人に手を差し伸べることで私たちの協力をしていることになります

ということをマザーは彼らに伝えたそうです。

私はその時気付きました。世界を見る前に、自分の島、自分の地域、自分の学校の友達、困っている人や元気のない人がたくさんいるじゃないかと。

■父の命を救ってくれた医師との出会い

ここまでアフガニスタンとかマザーテレサとか、かなり規模の大きなお話しでしたが、ここが最も大きな医師を目指し医師にこだわった理由です。

私の父は、私の記憶のある限り健康な時期がありません。父の体調が最も悪化したのが私が小5〜中1の期間でした。父は仕事を休業し、毎日嘔吐し、痛みに震え暴れ回るほどのこともありました。そんな父を最初に救ってくれた医師こそ私が医師を目指した最大のきっかけの人です。

”父の命を救ってくれたから”ではありません。その先生がしてくれたことは、すごい手術をしたとか病気の原因を突き止めてくれたとかではなく、"優しくしてくれた"からです。

その先生はいつも父のベッドの横にしゃがみ込んで冗談を交えながら話を聞いてくれ、よく手を握ってくれていました。

それだけではありません。島あるあるですが、家から父の入院する病院までは車で片道1時間かかります。その道のりを母は毎日往復し父のお見舞いに行っていました。二人とも自営業でそんなに裕福でもなく、父が休業となれば母は仕事ももっと頑張らなければなりません。それなのに母は必ず父のところに行きました。

私は子供ながらに母のことが心配で、誰か母に優しくしてほしいと思っていました。みんな父には「頑張れ」「きっと良くなる」と声をかけてくれる。でも母には?そう私はいつも思っていました。そんな中、私の知る限り初めて母に本当に心のこもったねぎらいの言葉をかけてくれたのがその医師でした。

そして今思えば私も、父は入院中で母は仕事、兄は反抗期真っ盛り、お金がないこともわかっていたので学校の上履きが小さくなったことさえ母に言えず、暗くなっていたと思います。そんな私にもいつもその先生は冗談を言って笑わせてくれました。

父も長く病気を患ってきたので多くの医師にお世話になってきていますが、この先生は明らかに違いました。父の症状だけでなく心まで見てくれている、父だけでなく、母が毎日通っていることも、最近頑張りすぎなのも、小学生の娘に元気がないことも気づいてくれている。そして元気づけて優しくしてくれる。私はこの先生のような、患者さんの周りもしっかり見てあげられる、明るくユーモアに溢れた医師になりたいと思っています。


この先生が私の人生の目標であり支えであり、家族全員の命の恩人です。

この先生のようになりたいという気持ちが、中高の学校生活、3年もの浪人生活、そして医学生となった大学生活を一生懸命頑張り続けられるエネルギーになっています。



長くなりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました。

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