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リングをとりまく叙事詩と抒情詩

昨晩、ユーロライブで実況アナウンサー・清野茂樹と講談師・神田伯山による実況芸セッションを鑑賞。
二人の即興による「出世の春駒」実況も伯山による「吉岡治太夫」も素晴らしかったが、なにより清野が実況アナの実存を賭けた「古舘を愛で殺す男」という一席に心打たれた。実況アナを目指す清野の歩みと、1988年に古舘が実況した猪木vs藤波戦が折り重なるように構成されていた。
かつて私も拙著『メモリースティック』でこの古舘の実況について書いたことがある。
闘う者、それを実況する者、だけではない。さらに外側にいる誰かについて、昨夜の感想代わりに残しておきたい。

テレビ観戦した『G1クライマックス』と、会場観戦したDDT両国大会ツーデイズの2日目。この二つだけでも十分、猛暑に負けぬほどのプロレス熱を味わった夏だった。

ここ数年、DDT両国大会は、伊野尾書店の伊野尾店長率いるプロレス出版シンジケート(書店、取次、版元など出版関係のプロレス好きで構成される集まり)に混ぜてもらい観戦している。今回も50名近い参加者が集まるなか、初プロレス観戦という方もちらほら。

プロレス復権とともに、時代が新しいフェイズに入ったのを感じる。飯伏幸太戦に臨む煽りVTRでのオカダ・カズチカ発言がアツかった。

「馬場や猪木のプロレスしか知らない人たちに、レベルの違いを見せてやる」

Twitterで画像が流れてきた「DDT両国大会観戦のしおり」もよかった。こういうの大事。予備知識ナシのプロレス観戦も贅沢な経験ではあるが、事前に多少の予備知識があるほうが入っていきやすい空間であることもたしかだ。

そして、こんな経験はないだろうか。

試合観戦中、背後や横の席から聞こえてくる声――。

いまリングで闘っているレスラーはどのようなファイトスタイルで、どんな歴史や遺恨を背負っているのか。でも、そんなことを気にせずとも、この技とこの技とこの掛け声を押さえれば大丈夫だから――とか。

あ、いまの効いている、効いてない、この関節技はひと息入れて休んでいるにちがいない――とか。

そんな声。

そう、観戦初心者のツレに、プロレス者がレクチャーする声が。

この野良の実況解説をウザいと思うか、意外にも耳に心地よく感じるかは、ケースバイケースだろう。試合の流れを寸断しないツボを押さえた解説には、「いったいどんな素敵な御仁が――?」と席を立つタイミングでつい顔を盗み見てしまうこともある。会場観戦の醍醐味のひとつだ。

裸一貫のレスラーたちによる技の応酬や勝負の行方だけでもプロレスを楽しむことはできる。しかし、リングをとりまくたくさんの声の存在に気づくと、そこにはさらなる豊穣な世界が待っている。

まずは、目の前の試合を、即時、歴史上の出来事へと昇華してくれる声を聞いてみよう。

わかりやすいのはテレビの中継番組だ。そこではアナウンサーによる実況と、レスラーに近い立場の人間による解説が加わる。

彼らはリングという空間には存在しない第三者(目撃者)として、闘いの外枠を構成する(まれに実況アナがリング上の闘いに巻き込まれることもあるが……)。つまりは叙事詩的な語り部である。

だが、例外もある。

例えば1988年、横浜文化体育館での猪木vs藤波の師弟対決。実況アナウンサー、古舘伊知郎の名調子はこんな具合だ。

「我々は、思えば全共闘もビートルズもお兄さんのお下がりでした。安田講堂もよど号ハイジャックも浅間山荘も三島由紀夫の割腹もよくわからなかった。ただ金髪の爆撃機ジョニー・バレンタインとの死闘。あるいはクリス・マルコフを卍固めで破ってワールドリーグ戦に優勝した、この猪木の勇姿はよくわかりました」

「藤波よ、猪木を愛で殺せ!」

たしかに藤波は六人兄妹の末っ子だ。しかし、これらの発言は、藤波の心の声そのものではない。あくまで古舘が考えるところの、レスラー藤波の〈内なる声〉なのだ。

つまり、第三者である古舘が生み出した、架空の私(詩)的感情の表出である。

この時点で、古舘の実況は叙事詩を内破し、ほとんど抒情詩の領域に突入している。その抒情詩的な語りには、藤波と同世代である古舘自身の声のみならず、試合をじっと見つめる観客の心情までもが代弁されている。

なんと声に溢れた劇的空間だろうか。

このプロレス実況の異様さは、野球やサッカーの実況中継と比べれてみれば、よくわかるだろう。

本来、リング外のものである叙事詩的な語りに織り込まれた抒情詩的な声は、やがてリング上を浸食し、リングそのものを生成する。

今年の1・4東京ドームの真壁刀義vs柴田勝頼戦のまっただなか、ぼくは、背後にある声を聞いた。その声は、新日本を離れ総合へと走り、いままた新日本へと返り咲いた柴田に対する真壁の複雑でいてしかしどこか温かい想いを、おそらく彼女とおぼしき隣りの女性に向かって延々と語りかけるのだ。

私は振り返り、おもわず叫びそうになった。

「おまえは、真壁か!?」

怒っているのではない。抒情に撃たれたのだ。

真壁でも、真壁でなくてもよい。むしろ、私もあなたも真壁である。真壁の抒情を歌い上げるコロス(合唱隊)として、我々はセコンドとともにリングを取り囲んでいる。

プロレスは単なる技の応酬ではない。ある韻律を持つ。レスラーだけではない。リングサイドの語り部や、それを取り巻く観客たちの行為(ドラーン)もまた、プロレスというドラマを担っている。

(初出:『KAMINOGE』2013年9月号)


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