規制の限界と国家の役割

 少し前の話だが、新型コロナウイルスの感染防止に関して、厚生労働省のクラスター対策班が、このまま何も対策を施さなければ40万人感染して死亡すると発表し、各方面から強い批判がなされた。しかし、ある情報を提示することで対象者にその目的に合致した行動を促すという点では、「情報的手法」を取り入れた政策として成立しているように思う。特に環境政策分野においては、有効だと評価されている手法である。

 情報的手法とは一般的に、ある製品・サービスについて環境負荷や環境保護への貢献に関する情報を提示することで、消費者に環境評価をもとに選択することを可能にすることである、とされる。これによって、企業に対して環境保護に取り組ませる実質的な規制が働くことになる。情報的手法は、直接的な規制(企業活動の停止や制限など)が課すことができない場合や、そのような規制があってもなお環境保護にとっては実効的でないなどの場合に、そのような政策枠組みを補完する形で機能することが評価されている。

 「40万人死亡」を公表したことについては、対象者(市民や企業など)の行動制限を図るために、直接的規制がかけられない状況下(新型インフルエンザ対策特別措置法の不備)において、感染防止のために何も対策をしないとどのようなネガティブな結果を招くか、対策をすればどの程度被害を抑えられるかを提示したことになるので、完全に一致したものではないが「情報的手法」に類似しているといえる。

 エジプト政府もこのままだと最終的には100万人感染すると指摘し始めた。エジプトでは外出禁止令といった規制があっても違反者が出ていたり、感染者の増加が抑えられていない。そのため、感染被害に関する具体的な情報を提示する手法をとったとも捉えられる。直接規制の限界を感じているのかもしれない。

 日本の「40万人死亡」に科学的な根拠があるかどうかは検討の余地があるが、このような政府(西浦教授チームの独断?)の取り組みは肯定的に評価されてもよいのではないだろうか。特措法の改正が指摘され始めているが、それ以外の手段が存在するということを認識しておきたい。

 確かに伝統的には罰則を伴う直接規制が有効に機能してきた。殺人などの行為は非日常的なものであり、倫理的にも許されないので、罰則を伴う規制が必要とされる。しかし、外出などといった日常的な行動を規制するとなると、その行動の抑制や行政の管理コスト(違反の摘発)の面で直接規制には限界がある。個人の自由や人権との衝突といった観点でも、やはり行政による直接規制は新たな問題を引き起こす可能性がある。政府が規制を課すのではなく、情報的な手法によって個人の行動に働きかけることが、個人の自主的な取り組みにつながっていることは否めないと思う。

 海外における政府の強い規制と比較して、日本は個人の自主的な取り組みで感染防止を成功させていると評価されている。ただし、その比較はもっと詳細に検討されるべきだと思う。政府の情報的手法の政策によって促されているといった点に注目すれば、純粋に個人の自主的な取り組みだと言い切るのは早計だと思う。直接規制の限界があるとしても、行政府の役割は依然として存在するのである。海外との違いを、それこそ「民度の違い」で語るわけにはいかないであろう。

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