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家族の在り方 人とちがっててもいい

私たちにはみんな、自分が生まれた家族がいる。
だけど、その家族の在り方は人によって異なる。

映画やテレビに映る家族や、
インスタのストーリーで流れてくる家族でのディナー写真、
友達の家に遊びに行った時友達の親と話す会話、
自分の家族とはちょっと違うかもしれない。
時には写真にさえもう存在しないかもしれない。

あなたのホームはどこ?
あなたのファミリーは誰?

かぞくは自分で選んでもいい。
あなたを無条件にサポートしてくれて、
自分が信頼できると思えるなら誰でも!


日本社会は家族中心的な価値観が根強いかつ、ハイコンテクスト文化によって、お互いに相手の意図を察し合うことでなんとなく通じてしまう環境だ。
規定のパターンに基づいて簡単に発せられるコミュニケーションは、時には有害だ。


パンプキンスパイスラテ、ハロウィンの季節が過ぎて、いつのまにか街はイルミネーションでキラキラしていて、世界はクリスマスやお正月へと駆け出している。
この時期は美しく、輝かしいロマンチックなクリスマスと家族で過ごす年末年始への世間の強い期待があるとはいえ、時には現実生活とは異なるかもしれない。

そんな今、わたしが伝えたいのは、
あなたは世間や周りの人たちが「いるべきだ」と言う場所にいることよりも、あなたが「いたい」と思う場所にいるべきだということ

家族の在り方だけでなく、この話はマイノリティとして生きることでも通じると思うが、
「であるべき」規範に基づいて生きることは簡単だ。なぜなら自分で新しい定義を作らなくていいから。社会で定められた規範通りにならない定義で生きていくと決めたなら、周りから批判されることを恐れなければならないかもしれない。
そう言った意味で、社会のマジョリティによって当然だと定義された設定で、生きていくのは容易だ。
でも「であるべき」規範に当てはまらない自分を否定したり、自分を隠すシチュエーションに違和感を感じたりするかもしれない。


人々は家庭、仕事、学校、子育て、さまざまな環境があるけど、
もし合わない規範や周りの価値観を押し付けられた時、距離を置いてもいい。
他人とバウンダリー(境界線)を引くことは誰にとっても大事なことだ。

余談だが、私が留学でスウェーデンにいた時感じたのが、スウェーデンでは、セラピーやカウンセリングに行くことをオープンにするし、日本よりも友達同士でメンタルヘルスやセクシャリティについて話したりもする。
日本の、言葉にせず察して理解するコミュニケーション文化は謙虚で奥ゆかしいという魅力があるとは言え、そうやってメンタルヘルスが後回しにされていくのは良くないだろう。
我慢するためにしてきた労力はなんだった?
自分を隠さず生きていく方が案外心地よいかもしれない。

人間は表面的な情報で理解することはできない。
カテゴリーでなく、人の内面を理解するためには、オープンなコミュニケーションが必要だ。(当然距離感やプライベートゾーンも大事だけどね)

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