とっちらかり月報(2022/01)

幽霊の正体見たり巻頭言(と、泣き言)

昨年夏に島荘「占星術殺人事件」の感想を上げたっきり、noteをあまりにもほったらかしすぎたが、今になってちゃんと使ってやりたいと思うようになってきた。しかし、ぼくなどという怠け者にとって、不定期更新などは事実上“初出時点で無期限休載”にほかならない。かといって、現状のプライベートな状況下では日記という形も非現実的な目標と言うしかない。やるなら最低でも月報というところになるわけです。
となったとき、読書メーターやFilmarksのちまちましたレビューでの記述からはこぼれてしまうような部分を拾ったり、本同士を横断した“点つなぎ”のようなことができないかという発想が浮かんだ。こうして、1発目の“とっちらかり月報”をお目にかける次第である。できれば、そのうちとっちらからなくなるようにしたいし、月報と決めて定期的にこつこつ書いているうちに、いつかポンと不定期に浮かんだことをすらすら書けるようになるくらいにはなりたいものだ。

しかし、こういう月報というかたちで書く気になれたのは、ひとえにこの1月の間(厳密には、その前の数か月間も含めて)で、それなりに本を読んだり、映画やTVを見ることができたからだ。でなきゃ、また「俺はなにもできましぇん…なにもできないくじゅでしゅ…」とふさいで、Twitterに泣き言を乗せていただけだろう。そこには、おそらくいろいろと契機が、好機があったのだと思う。
その1つには、まああまり喜ばしい事態ではないが、間違いなく“ご時世”も関わっているだろう。ぼくの居住地は長野県北部だが、1月上旬からことは急速に悪化している。正直言って、明日喉が痛くなり出しても、もっといえばいまこの時点で自分が陽性だとしても驚かない。しかし、心底恐ろしいのは“脳の霧”のことだ。必要以上に怖がらないようにはしているが、それでも、あなや、一週間後には、思うがままに考えたりできなくなってるかもしれないと想像すると、気持ちは逸る。慢性的に襲ってくる失職の幻想や希辞念慮をなだめるうちに陥る精神停滞の沼にずっと浸かったままはまっぴらだ、という焦りも募る。いま、自分の部屋に大量に積まれたものと対峙しないで、いつするんだよ、と。
そうした意気込みに対して、どのくらい十分なインプットができているかはわからないが、少しずつ、乱雑に積まれたそれらに手を伸ばしつつある。いい傾向だとは思いませんか?……思いませんか……そうですか……
(このご時世だからある程度しょうがないっちゃしょうがないけども、いよいよ人付き合いというものをしないし、Twitterのフォロワー諸賢を隣宅の知人のように眺めて、たまにつぶやきに印をつけてくれるのを確認することがどれほどその代替として成立しているか、考えるべきなのだろうけど、いまんとこ度胸ないな。それ抜きにしたら、職場と親戚だけになっちゃう…まあ、なんつうか、アレですな。ちなみにいま一番行きたい“他者”の溜まり場といえば、テーブルゲームカフェなのである。正月頭から麻雀に少し凝りだして以来、というか厳密には冬ごろに福本伸行「アカギ」のアニメ版をぼーっと通しで見たのがきっかけで、ゲームシステムから浮かぶパーソナリティみたいなのが面白いなぁと思い始めて、とにかく他人と物理的に卓挟んでゲームしてえみたいな気持ちになってるんだけど、なにぶん“ご時世”で、行くのに足踏みしてしまってる。まだこうなる前、何回かテーブルゲームカフェには行ったんだがいずれも間が悪くて、誰もいない時に来ちゃって、マスターとちょっとした話を弾ませるだけで帰っちゃった。あれからもう2年以上経つんだな)

“あいだ”に挟まりたいという話

さて、読書と鑑賞の話になると思いきや突如「ウマ娘」の話になる。Twitterのほうでぼくをご存知である貴方は、こいつアイコンはメジロマックイーンやしファンアートはアホみたいにRTすんのに肝心のコンテンツそのものの話はほとんどせんやないけ、とお思いになられているかもしれない。ただ現状、ぼく的にまとまった文章として語れるのは、個々のキャラクターの個々の表象や性格等のとりとめもない話ぐらいしかない。たとえば時たま見かける、「アイドルマスター シャイニーカラーズ」のキャラクターの育成ストーリーをNoteで熱く語るような書き手のように、ぼくは「ウマ娘」を語れない。
むろんそこにはぼくの経験や根性の問題もあるだろう。書きたければこれから鍛えるしかないが、それはそうとして、よく思うことは、ストーリーのなかの移入対象に関して、ぼくが(プレイヤーへの感情移入を促すテキストの性質からして)正統的である「トレーナー」の位置に立つことを内心拒んでいることがあるのではなかろうか、ということである。

現状では時間の兼ね合いとかもあって「ウマ娘」だけに絞りきっているとはいえ、美(少)女が出てくる類のスマホゲーには元来とても惹かれる人間の辺良見氏である。だが、テキスト上のプレイヤーの適正位置なんてものは、正直かったるくてしょうがない。具体的に言えば、提督、指揮官、マスター、プロデューサー、ドクター、トレーナー、先生、隊長、なんでもいいんだが、自分にとってこの位置が全然重要に思えない。彼女らの育成をしているときは、ゲーム上の戦略、リスクとリターンを考えながらボタンを押すぼくがいるだけだし。
わかってはいるんですよ、普通はそういう役柄に擬制する自分をゆるーく認めるものだとは。でもそうなったとき、彼女らがその役柄へ向けて好意を見せる、関係の特別性を強調する(あなたとだからここまで来れたんです!ってゲームの中で何回言われたことか)、もっと露骨なら愛の告白に近いことを言う、といったことがまず100パー起こるのです。そうなると、辺良見氏としては一歩下がってしまう。筋としてそれがダメというのではない…だがその対象が擬制された自分自身というのに対して引いてしまうわけ。

……やったらなんや、お前は美少女キャラクタに対してどないな態度を取っとんねん、トレーナーちゃうんやったらな、ゲーム中自分自身はどこ行くねや一体!?……とここでツッコミを入れてほしい。そこでぼくはこう答えます。「ううーん、結局の所、あいだなんですよね」……あいだ?……そう、キャラクターと、別のなにかとの間。……キャラクターとキャラクターの間、ではない。つまり、素朴な“カップリング”については、ぼくはあまり興味がないのではないか、ということ。
“あいだ”と書いたが、要するにそれは、キャラクターと、キャラクターを見る視点の“あいだ”としても成立する。キャラクターが書かれたファンアートがあるとする。漫画や映画に視点が存在してしまうように、ファンアートも大半の場合、何らかの視点を仮置きせざるをえない。キャラクターを見ている視点に立つ人物がその場に存在しない場合もある。もちろんいる場合もある。だがどちらにしても視点は存在する。キャラクターというメインのものがあっても、実際にはそれらの周辺や向こう側のものも見えているのだ。
もちろん、“あいだ”から得たものをどう解釈するかは、受容者の主体的体験になるので、その受容者としての擬制された自分がそこでは消え去る、とは言えない。それでも上記の“適性位置”としての視座を前提に見るのとは、だいぶ性質が違うはずだ。おそらく、ぼくはそういう“あいだ”を見たがっている。

(なお……この手のスタンスには、ストーリー上の適性位置に従って立つスタンスと、もうひとつ、「私も美少(女/年)になりたい!」というスタンスがある。ぼくはどちらかといえばこの類になるが、この話はいまするとこんがらがりそうなので、置いておく。)
(ちなみに、「ウマ娘」のキャラクターにも、この“あいだ”に関してのプロフェッショナルが存在しており、これが“デジたん”ことアグネスデジタル嬢である。)

……で、オチに入ると、ツイのTL上で目に留まりふと知った、“五分目悟”氏によるウマ娘MMD動画を、(全てをではないが)そこそこ楽しませて頂いている。MMD動画文化に、それほど自分が親和的である気はしないが、そういうことを忘れさせられてしまうほど、この人の作品から覗ける“あいだ”は、間違いなく無二の奇矯さを持ち、かつスリリングである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?