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「居場所」はアイデンティティで、二拠点生活は自己表現

ここ数年「居場所」について考え抜くのは人生のテーマみたいになっているのですが、二拠点生活をしてみたことでますます拍車がかかっています。どんな生活をしているかは前回までのnoteをどうぞ。

私のまわりには移動距離感覚がバグっている人がたくさんいます。良い雪や良い波などの自然現象を追ってどこまでも行く人たちは、私なんて足元にも及ばないほどフットワークが激軽。拠点が2つ3つある人も珍しくないけど、それでも本拠地とかベースとか、この人はここの人というたしかな「居場所」がひとつある。

人間にはやっぱり「居場所」が必要。そんなふうに感じる日々に感じたあれこれを、各拠点の美しい景色を挟み込みながら雑多に書き残してみます。ただアウトプットしたいだけなので興味ある人はどうぞ。

移動することで逃避欲が消えた

そもそも私がこんなに居場所を意識するようになったきっかけは、海外のスペシャルな町に住んだから。(それがなければ、一応女性ですし防犯面を考えても住む町をインターネットで公開したりしていなかったと思う)

オーストラリアのByron Bay、神奈川県の葉山町、長野県の白馬村ときているのだけど、この3つの土地の共通点は、どこも高いブランド力をもつリゾート観光地であるということ。

飽きっぽい性格なので、これまでは定期的に日常に飽きてどこかへ旅する生活でした。だけど今は旅のデスティネーションとして選ばれる地域をひたすら往復しているので旅欲が消えていきます。本来なら飽きて逃避したいタイミングで「移動」が挟まってくるので、気が紛れているともいえます。

プラスに捉えれば日々にマンネリを感じることが減って充実感があるし、マイナスに捉えれば遠くへ旅行したい気力とエネルギーが沸かなくなった。ただの老いかもしれないけれど。

葉山の夕暮れ

居場所が増えたようで、どちらにも居場所がなくなっていく   

二拠点生活をしていると友達に「どっちにいるのかわからない」と言われます。久しぶりに会ったとき「白馬にいたんだね!」と言われると、ずっといたけどな……と少し傷つく。

そのデメリットとして、人に誘われづらくなくなります。自分もそうだからわかるのだけど、カジュアルに誘ったときに「ごめん今白馬にいないんだよね」と言われると地味にダメージ。誘うにあたり「まず白馬にいるのかどうか」の確認から相手にさせてしまうのは、自分のわがままにより発生したコストを周りの人に背負わせている感じで申し訳ない。

「タイミングがあえば」という言葉があるけど、会える人って、無理して会おうとしなくても、引き寄せられるようにタイミングで会えたりする。移動生活をしていると、会うべきときが来たら会えるよな、と、あまり人付き合いや人間関係維持に固執しなくなります。自分から声をかけるにしても当日や前日にしか誘わないので「約束」をしなくなる。

まあそんな感覚もありつつ、どっちににも居場所がないなーと悲しくなることはあります。どうも自分がふわふわと宙に浮いた存在に思えてくる。「つかみどころがない」と言われてしまうのはこういうところでしょうか。

白馬の夕暮れ

そこに居る理由をつくることが大事で、難しい

そんなデメリットを拭い去るほどの両方に居るべき理由を作り、自分に言い聞かせ、他人にも伝えていく必要があるので大変です。

この生活はお金も時間もかかるし効率がよくはないので、なぜそこまでしてどっちにもいたいのか、全方位納得させていかないといけません。いや、いけなくはないのだけど、それができないと自分が苦しいだけで意味がない。

たとえば白馬にいる理由として「スノーボードがしたい」とかでもいい(ちなみに私はそこまで毎日スノーボードがしたいわけでもないのに、居る理由に納得感を増やすために無理やり滑るみたいになってしまった)。今は仕事があること、会いたい人や面白いコトがあることが理由としては大きい。

葉山には特に仕事はなくて、今はそこでの暮らしによってチャージされて自分を保てるというのが主な理由。感覚やセンス的なものもこの地から受けるインスピレーションが私を形作っているので、離れると大切にしたい価値観や嗜好も変わってしまいそうで怖い。在りたい自分でいるための土地、みたいな感じかな。

今までは気分のままに居場所のバランスを選んできたけど、仕事の都合で居る理由ができてしまった場所もあったりして。居る理由を作るプロセス自体が人生そのもので、ライフスタイルになっていくのかな、とか考えています。

葉山の青い海

リモートワークの時代だけれど、それは虚しい

仕事はずっとリモートワークだけど、ここ数年は地域に根ざした、地域に関係のあることをやってはいる。だから移動も現場も多い。ずっと1日家でパソコンに張り付いている日はだいぶ減った。

もともと今の生活になった背景に、リモートワークで生計を立てながら好きな土地で「暮らし」だけをやるのに限界を感じた、というのがあります。居る場所と無関係の仕事をオンライン空間でやる日々は、私にとっては虚しかった。今はパソコンの中に生息しなければならない物理的制約もないので、できれば現場に出かけてリアルなものを扱いたい。

(パソコン作業に加えて人との打ち合わせまで画面越しに行うのは目や脳をはじめ心身に悪い。30代以降は何より健康を大事にして生きていきたい、というのも多いにあります)

作業場としてのオフィスに縛られることと、目的をもって特定の場所に行くことは、「リモートワーク」の対比対象として全然違う。前者は求めていないけど、後者は人間としてやるべきだなと今の価値観では思っています。私の興味関心分野が「自然」「人間社会」「フィールド」に寄っていることもあり、パソコンの中だと満たされないのです。

ホームへの帰路

地域との相性は「自然」「文化」「社会」のバランスで決まる

地域との相性についても自論が生まれてきました。

冬の白馬は面白かったけど、春になってからの静かな期間、すごくつまらなく感じてしまった。観光客も地元民も一気にいなくなりお店も休業ばかり。そんな白馬を「社会が消えて雄大な自然と文化だけが残った」と表現したらわりと共感してもらえました。

自然、文化、社会。この3つの観点で日々を過ごす地域に求めるものを考えてみると……? 私の場合、「自然」も大好きだけど最もプライオリティが高いのは「社会」であり、「文化」はどちらでもいいと気づきました。

  • 自然……ありのままの自然

  • 文化……人間が作るエンタメ、食文化、ものづくり、アートや音楽

  • 社会……人間の営みや交流、会社や組織、仕事をはじめとした社会活動など

都市部は、「社会」と「文化」がたっぷりあるけど「自然」が少ない。田舎は、「自然」がたっぷりあるけど「社会」と「文化」は薄い。郊外はバランスがよくて、「自然」がほどほどにありつつ、適度な「社会」と「文化」もちゃんとある。

私の好んでいる白馬や葉山は、「自然」と「社会」が強くて「文化」が弱い。逆に同程度の自然で文化のほうが強い土地というと、富山、金沢、松本、鎌倉なんかが思い浮かぶけど、比べたときの社会性と文化性の強弱はなんとなく伝わるでしょうか。サブカル的な要素があるかや、カルチャーの濃度が異なる。

この3要素の好みのバランスが、自然70%・社会20%・文化10%がいい人もいるし、自然30%・社会10%・文化60%がいい人もいるわけで、比率が近いほどフィットするような気がしています。

たまに巡り会えるピンクの空

どこに居るかが自分をつくる

いろいろと雑多に書き連ねてきたけど、「どこの者であるか」は、人間のアイデンティティにとって重要な意味をもつなと思います。遥か昔は生まれた土地で死んでいくことが当たり前で、人の移動が増えた武士の時代以降も「信濃の国より参った◯◯に候」と土地ファーストの自己紹介は必須だった。動物的に考えると、どこの土地に生息している個体か、というのは、とても大事なのではないかなと。

現代では「どこの」の部分が会社名や所属コミュニティ名などに置き換えられたことにより、物理的な「どこの」の重要度が薄れてしまっているのではないかな。さらにオンラインで物理的居場所を超越した交流が簡単になり、目の前の画面上で話す人の肉体がどこに実在しているかなんてどうでもよくなってしまった。

それでも私は、住む場所はアイデンティティで、自己表現のひとつでもあると思っています。自己表現の方法というと、文章を書く、歌う、楽器を奏でる、絵を描く、踊る、ものをつくるなどいろいろあるけど、「住む」「移動する」という表現方法もあるような気がする。

複数の地域に暮らしてみると、住む場所によって性格も嗜好もライフスタイルも違うことがよくわかる。自己顕示欲のようなものとは少し違うのだけど、住む場所によって自分が形作られ、定義されているという感覚がすごくあります。

だからこれからも居場所を考え続けるし、それはころころと形を変えていくんだろうなと思います。この先はどこに居るのか。どこを自分の居場所にするのか。定まることなんて一生ないのかもしれないけど、考えています。

ひたすら高速を走って移動する日々
走り続けていればなんとかなるかな

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