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さようならPR。私はコミュニケーションをやっていきます

PR=Public Relationsというのを軸に10年くらい仕事をしてきましたが、ここらで勇気を出して「PR」という言葉を捨てようかと思っています。そう思った背景がこちら。

あまり言葉の定義だとか、概念の捉え方だとか、そういう話ばかりをするのは好きではないのだけど、さすがに今区切りをつけておかないと自分がつらくなっていくかもな、という感覚があります。PRという言葉は、もう取り返しがつかない。

やはり人間は目の前にある概念を言葉によって切り取ることで、現実を一人ひとりの解釈で認知している生き物なので、言葉をどう使うかというのはそのまま、その人が世界をどう認知してその中にどう身を置いていくか、大げさにいえば「どう生きていくのか」に直結すると考えています。

そういう意味でとても言葉の使い方は大事にしてきて、過去にも何度かそういうことを書いてきたので、今思うことも整理しておきたいと思います。

「PR」という言葉についてしまったイメージ

就活における「自己PR」という言葉だったり、ハッシュタグとしての #PR の普及だったり。一般の人にとってやはり「PR」と聞くと、アピールや宣伝活動といったイメージが定着しています。

ここ数年の業界の人たちの努力によって、「PR」という職種が一定の理解を得てきたように私の目には映っていましたが、それも覆される昨今のあれこれ。最近では2023年10月1日から「ステマ規制法」というのが始まり、広告っぽい記事には「PR表記」をつけるように!と散々騒がれたりしていました。

ちなみにこの「PR表記」というのは、記事型タイアップ広告に付けるべきとされている表記のことで、2013年頃からもう10年ほど使われてきています。本当はAD表記とか広告表示とかのほうが正しいのだけど、一部では「PR表記」という言葉のほうがよく理解されたまま進んでしまった。「パブリック・リレーションズ表記」というのは、意味が通じないのだけど。

そして最近、ジャニーズの会見絡みでX(Twitter)で「PR会社」がトレンド入りし、そうした報道を受けて日本パブリックリレーションズ協会が公式見解を出すという異例の自体がありました。

基本的に裏方であり、表舞台で取り沙汰されることは少ないPR会社。記者のNGリストを作っていたとかで、治安の悪い報道がテレビでもされてしまっています。

正直、PR会社出身者として、記者のNGリストを用意していたことに対してはそこまで不思議ではないのですが、こんなに大きく世間で騒がれてしまっているのはやはり「PR」という言葉に普段から染み付いている情報操作感、ブラックボックス感、胡散臭さやグレーっぽさ、政治やプロパガンダとの関連性などが影響しているのだろうな、と思ったりします。

PR業界の中にも、実際に本当に胡散臭いビジネスをしている人というのはたくさんいて、「無料の広告であなたのビジネスを100倍に!」みたいなインスタ広告とかが出てきた経験がある人もいるのではないでしょうか。

PRという言葉には、どうしても「メディア」というイメージが付きまとうので、マスコミに対する悪い印象に引っ張られてしまっているのもあります。もうメディアだけを相手にする時代ではないのだけど、ここはきっと変えられない。過渡期に来ているなあと、何年か前から私は悩んでいるのです。

肩書きを変えることにしました

独立してからずっと「PRコーディネーター」という肩書きを名乗ってきました。その理由は、昔2019年頃に記事に書いたことがあります。

この肩書きは私のできることをうまく表現していて、独自性もあるので気に入っていたのですが、今年に入って使うのをやめました。今は「コミュニケーションディレクター」と名乗っています。

まあ肩書きというのは、自分という人間がどうありたいかの表現や主張のようなものだと思っていて、なにやらカタカナを掲げて実力が伴っていないとしても多めに見てやってほしいのだけど、これはただ「コミュニケーションをディレクションする人間でいたい」というシンプルな気持ちの現れです。

実は今年に入って法人を設立しているのですが、「あの人もPR会社を立ち上げたのか」と思われるのだけは避けたくて、まったく公表もしていません。今の私の表現力と影響力では、PRパーソンが次々に会社を立ち上げては祝われている昨今の風潮において、そこから外れて本来の意図を伝えられる自信がないからです。

本当は会社の「代表」というだけが何の色もなくていいかなと思っているしそれで伝わる状態をつくっていくべきなのですが、とはいえ個人として立ち向かうことのほうが多いので、自己紹介としてあえて名乗るならコミュニケーションディレクター、ということにしています。

本当はCommunications Coordinatorが理想で、海外向けにはそう名乗ろうかなと思うのだけど、日本人向けにはあまりにも長ったらしいし絶対に伝わらないので諦めました。「PR XXer」というのは捨てます。もう少し広くいたいし、ここの枠組みからは徐々に離れていきたい、という思いがあって。

そうです、コミュニケーションです。地方においても伝わるように

PRという言葉を捨てるとなると、やはり感じるのは日本語の足りなさ。

今のところしっくりくるのは「コミュニケーション」という言葉しかないのですが、このカタカナも日本人にとってはいまいち無色です。とはいえこの言葉を使いたい背景には、海外の潮流なども影響しています。

この前書いた記事があって、ぜひそれも読んでほしいです。

日本人のPRパーソンのほとんどは東京にいてかなりドメスティックになりがちな業界なので、グローバルな視点をもっていたいという気持ちはずっとあって、海外の動向は追うようにしています。今は私自身が「TOKYO」という地からすっかり離れて、「GLOBAL」と「LOCAL」を見ているのもあります。

外資系やグローバルな事業展開をしているPR会社の人はなぜかSNSにいない傾向があり、世論として展開されるのはかなり日本人的な思考の話ばかり。先ほどの記事に書いたように、海外ではジョブディスクリプションとしてのPublic Relationsはすでに消滅しているような印象があるので、なるべくそちらに倣っていきたいなというのがあります。

それと、ここ数年は地方のお仕事をしてきた中で、日本の地方において「PR」という言葉は本当に伝わらないな、というたびたびの実感があります。東京以上に宣伝活動のことだと思われているし、なんなら「メディア」との結びつき感すらもなかったりする。PRを任せてもらっているのに、私の知らないところで地元の新聞に掲載されていた~なんてこともあります。Instagramで告知してくれる人だと思われたり、記事を書いて宣伝してくれる人だと思われたり、散々です。

そんなところで「Public Relationsとは社会との関係構築のことで~」なんて解説を始めても誰も興味がないのも、PRという言葉を捨てかけている理由です。

一方で、日本の地方には昔から強い「コミュニケーションの力」があります。それをコミュニケーションという言葉では表現していない場合が多いけど、要はすべてコミュニケーションだなーと思わされる機会がたくさんあるんですよね。

あたたかみのあるコミュニケーション

なんだかまとまらないのだけど、コミュニケーションっていいな、と。あたたかみがあって。最近の人生のテーマは「あたたかみ」なので、トゲトゲしたPRとはお別れして、そっちの路線でやっていきたいなと思っています。

で、なんなの?という話でいうと、人と人が関係を築くのと同じように、企業と社会も、ブランドと消費者も、地道にコミュニケーションを重ねることで徐々によい関係になっていきます。そういう本来の営みに立ち返って、あたたかみのあるコミュニケーションをディレクションしていきたいな、という感じです。「ディレクション」というのはリードするとか引っ張るという意味で、全体設計を考えてクリエイターさんの力を借りながら先導していく役回り、となります。ごくごくシンプル。

すべてのビジネスには「人」がいるので。最近はその「人」の想いにやられてしまうことが多くて、いちいち泣きそうになったりしています。会社としての利益を追求するうちに人の心を失ってしまう人はたくさんいるけど、しっかり想いを持って取り組んでいる人ほど心に余裕があって、周りのことをしっかり考えられて、そこにはちゃんとお金というエネルギーが循環しています。

なんの話。

これから私が大切にしていきたいものの話でした。なんだかよくわからないけど一緒に仕事してみようかな、なんて人は、いつでもご連絡いただけると嬉しいです。

おまけ:カバー写真は、体調を崩したときに仕事先の方から差し出された長野県産クイーンルージュ4玉、という「あたたかみの塊」が、感情と体調の揺れによりぶれてしまった図。

おわり。


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