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今年の読書録②「パルムの僧院」(その2)

舞台は19紀イタリア。

なぜわたしはこの小説に、いまいち乗れなかったのか。

実際の事件に取材したこの小説は、フランス人である作者が抱く、登場人物であるイタリア人の理解を越えた情熱に対する驚嘆が、底流にあるといってさしつかえないように思う。

「われわれフランス人はもう少し思索的で打算的であるのに対し、この素晴らしいイタリア人たちときたら」という感じである。

主人公であるファブリスは、富貴の生れであるが若い時分に情熱のおもむくままあるスキャンダルを起こし、それゆえ流浪の人生を歩む運命をたどる。

その他の主要人物として、ファブリスを心の底から愛している、叔母にあたる魅力的な公爵夫人のジーナと、彼女の愛人である政治的権力者である宰相のモスカ伯爵がいる。

この二人のいわば中年ならでは恋模様と、政治および宮廷における高度なる駆け引きこそ、わたしにとって本編の最大の魅力であった。

逆に、ここからが「よく分からない」問題なのであるが、わたしがこの小説を冒頭から退屈に思い、最後まで引きずることになる「いまいちの乗れない」感じは、ほかならぬこの若きファブリスにある。

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いまはもうさすがに話題を聞くこともなくなったが、十年以上前、TVでやけにもちあげられていた日本のプロ・ボクサーで、亀田三兄弟という男たちがいた。まあ最初からうさんくさかったし、アンチは当時から多かったろうから、いまさら思い起こすのもばかげているが、わたしは彼らが、そしてプロモーターであるその実父が好きではなかった。

ボクサーとしての実力は、そもそもプロスポーツに興味の薄いわたしに計りようもないが、亀田三兄弟の魅力はその言動・振る舞いの傍若無人さで、一部のファンはその勇気にそのつど喝采するようであった。

TV向けの演出と見るのは簡単であるが、その背後にいるのが親であるにしろ巨大資本であるにしろ、もう十何歳になった男が吐いた言葉は、幼稚園児ならまだしも、それは自分の責任に帰する。

その後の彼らの人生についてはなお知らないが、負けたら切腹とまで言った男は、結局負けた後、前言を取り消すでもなく説明するでもなく、つまりそのような言葉を持たなかった。言葉を持たぬということは、自分を放棄していることにほかならない。

わたしはTVで、すっかり消沈した当の本人が、しおしおと兄弟にともなわれ、最後まで落ち込んだ姿でひっこむという甘え切った映像をよく覚えている。

あれは負けた姿ですらない。逃げた男の姿であった。

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「パルムの僧院」とわたしの関係を説明しようとして、われながら下手すぎる例えが出てきて驚愕している。

亀田三兄弟とファブリスはちっとも似ていない。

ただ、ファブリスの「英雄的倨傲」「英雄主義」のようないわゆる若気の至り的な行動への寛容さを、わたしはあまり持たないということが言いたかったのである。

こういう人物はきまって周囲に迷惑をまき散らし、大人の好意によって助けられ、結句反省の機会もなく同じようなことを繰り返し、運の果ててようやく涙するわけである。

しかももともと金持ちの息子で美男子とくれば、そんな小説の登場人物に、あなた同情が出来ますか。

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というわけで、活劇としての魅力もあるこの小説が名作の、そしてこの訳文が名訳の名に恥じぬ出来栄えであることはなんとなく理解できるものの、われらが主人公ファブリス青年の直情型の行動に、「いまいち乗れない」まま、今回は本を閉じるのであった。

まあフランス文学というやつへの苦手意識が、わが底流にあるというのもまた、正直なところでもある。

(了)










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