今年の読書録①「怒りの葡萄(その2)」
「最後のまとまった雨は、オクラホマの赭(あか)い地(くに)と、灰色の地(くに)のいくぶんかに、穏やかにおとずれ、傷痕が残る大地を毀(やぶ)らなかった。」(伏見威蕃・訳)
冒頭の一節。
バカには難しすぎる文章で、漢字もルビがなければそうは読めない。これに、
「行潦(にわたずみ)の痕を、犂(すき)が行ってはまた戻り、十文字に交わっていた。」
と続く。
書店で立ち読みしていやな予感、というか、ムズカシイ漢字のしゃあしゃあと出てくる翻訳っぷりに大いに怯んだが、しかし結局、新潮文庫をズバッと購入。
広大な大地の激しく移りゆく自然の描写を、まるで定点カメラの映像のようにえんえんと書き連てゆく作者の意気込みに、興味をそそられたからである。
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「もしかしてこの小説は人物がいっさい出て来ず、このままオクラホマの風景描写だけでラストまでいっちゃう大長編なのでは?」
などという懸念はむろん第二章であっさり解消され、国道沿いの小さなレストランに停車する、赤い巨大なトラックが描写される。店内ではトラックの運転手とウェイトレスという、本編とは関係ない脇役どうしが他愛ない会話を続けているという、アメリカ映画で見慣れたシーンが導入部として描かれる。
ここから長い物語が始まるのだが、冒頭に描かれた北米大陸の凶暴な自然、そして社会の底辺で生き抜く人間たち、そしてこの「クルマ」という三角形の構図こそ、このアメリカ文学史上にサンゼンと輝くこの小説をつらぬくテーマである、とわたしは読んだ。
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「この自動車は、買う前にとことん調べたんだ。すごくお買い得なんていうやつには耳を貸さなかった。差動装置(ディファレンシャル)に指を入れたが、おがくずは詰めてなかった。歯車装置(ギアボックス)をあけたが、おがくずは詰めてなかった。クラッチをためし、車輪をまわして、ゆがみがないのをたしかめた。下にもぐって、フレームがひろがっていないのをたしかめた。横転したことはない。バッテリーの電池にひびがはいっていたんで、いいやつと交換させた。タイヤはひどかったが、サイズがちょうどよかった。手に入れやすい。乗り心地はまるで牡の小牛だが、オイルは漏れてない。これを買えっていったのは、よく売れた自動車だからだ。どこの廃車置き場にもハドソン・スーパー・シックスが何台もあって、部品を安く買える。同じ金でもっとでかい高級車も買えたけど、部品がなかなか手にはいらないし、あっても法外な値段だ。とにかく、おれはそう考えた」
「ハドソン・スーパー・シックス」という輝かしい名前が最初に登場する場面、中古車選びを任された、クルマに詳しい弟のアルの長いせりふである。
この物語は平たく言えば、オクラホマを食い詰めた農民一家が遠路カリフォルニアを目指す、というだけの話である。一家は親族・子供ふくめて十二人。これに説教師のJ・ケーシーなる福音書を連想させる人物が加わって13人。
家財一切を二束三文で売り払って買った、この中古のおんぼろトラックこそ影の主人公、本編最大の立役者と言ってもまったく過言ではない。
というのも一家の命運を一身に担っているのは、まさにこのポンコツだからだ。このポンコツが荒野でつぶれちまったら、この一家はおしまいである。だから読者は、運転手とともに、このポンコツが走行中に不調を訴える変な音を立てたりしないか耳をすませながら、細心の注意を払って読み進めるのである。
この「クルマの重要性」こそが、この小説をこの小説足らしめている最大の要因で、このようなテーマで書かれた小説を、みなさんどうですか、ほかに挙げられますか? まさに「クルマ小説」(car novel)、もしくは「ルート66小説」(Route 66 novel)とでも呼ぶべき現代性、同時に文庫版の解説にある通り、この小説は旧約聖書の理想郷を求めるというエピソードをそのまんま連想させる。
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この小説の最後で、再び自然が猛然ときばをむく。ノアと洪水のエピソードを持ち出すのは、いささかこじつけが過ぎるでろうか。しかしついに、男たちの必死の奮闘もむなしく、ポンコツは激しい大雨により決壊し氾濫した川に水没してしまう。
ラスト・シーンは、この小説が男たちの奮闘を描きつつ、実はおんなが男を救う物語でもあることを最後の最後に逆転的に印象づけられ、小説家の腕に唸らせられぬ者はいないであろう。
(了)
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