空海がすごいのは、空を表現するために、密教を日本人向けにアレンジしたことです。法身として実態のない大日如来を曼荼羅で示して、縁起という仏教の本質にまで私たちを導こうとしたのです。表面的には釈迦にもっとも遠いようでありながら、釈迦にもっとも接近していたのが空海であったと私は考えています(中略)この考え方(※大乗思想)を知っておいたほうが、空海の密教はより充実(中略)釈迦の悟りの世界は、姿や形はありませんが、曼荼羅を通して見ることができます(中略)密教の教えは、文字で表すことは難しい。ですから、曼荼羅などの図面をかりて、みなさんにお伝えしている(中略)(※高雄山寺(神護寺)は)もともと和気氏の私寺でしたが、空海が京都に入ることを許されたとき、このお寺に留まりました。この地を起点にして最澄との交流が始まり、日本仏教の夜が明けた(中略)東大寺には真言院があります。空海は東大寺の別当を務めていました。東大寺は空海ととても関係性の深いお寺なのです。その名残は今もあります。大仏の前で読誦されるお経は『華厳経』ではなく、『理趣経』です。『理趣経』は真言宗の根本経典であり、それが東大寺で毎日読誦されていることを考えると、空海の影響力がいかに大きかったのかが理解できます(中略)(※空海は)人間の心を十段階に分けて、仏教の諸宗派をその各段階に振り分けました。ちなみに、最澄の天台宗は第八、華厳宗が第九、密教が第十段階となっています。大乗仏教のなかで華厳宗をもっとも高く評価した空海は、その下に最澄の天台宗を位置づけました。このように書くと、空海はなんと「意地悪な」人なんだ!と感じるかもしれませんが、この分類は空海独自のものではありません。『大日経』という密教経典の思想に基づいたもの(中略)空海の本質は易行(中略)空海の考え方、つまり、即身成仏(※今ここで、大日如来を受け入れること。大日如来という力にすべてをゆだねて生きること大日如来は空であり識であり、宇宙全体を統治する原理そのもの。大日如来は私たちの目には見えない存在であり高度に抽象化された概念を指す)の考え方を理解するならば、すべての人は悟ることができ、涅槃に行くことができます (中略)縁起を簡単に言い換えるならば、「この世に完全なものはない」ということです。未来永劫続くものなど何一つありません。無常です。それを心から理解することが悟るということ(中略)空観とは、最初に悟ってしまえ、ということです。この世の常なるものはないということを理解する。つまり、縁起という本質をわかってしまいなさいということです。別の言い方をすると、現象世界を否定すること(中略)次に仮観とは、空観で否定した現実世界を、仮の世界ではあるけれども、肯定的にとらえ直すことです。もう少し具体的にいうと、仮の世界において自分自身の役割を果たす(中略)しかし、仮観に留ってしまっては仏教の本質から離れてしまうので、また空観に戻らなくてはなりません。このように空と仮を行ったり来たりしながら、一番よい状態にあることを中庸といったり、中観といったりします。 仮観に偏りすぎると、生きることの本質から離れていきます。しかし、空観によりすぎても、現実生活から離れすぎて生活できなくなります。ですから、仮観でもなく空観でもない第三の道を選択しなければならないのです。それが中観という考え方です。いい按配を見つけてください(中略)釈迦の悟りの世界は、姿や形はありませんが、曼荼羅を通して見ることができます(中略)密教は仏教を越え、芸術を越え、エンターテイメントでさえあるころが実感できます。時空を超えて空海の偉大さが感じられる唯一無二の空間───苫米地英人博士(著書名失念)※引用者加筆.