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空海が西暦806年に真言宗として日本に伝えた密教(ローマ・カトリック教会のしくみ)

修行を重ねながら、同時に、悩める衆生を救済する(他者に施す)ことにもつとめていく(中略)生きているそのこと自体がすばらしい、というところに立てば、見える景色はよほど変わってくる。

量子力学の多世界解釈の難点(中略)あの解釈は、外にいる観察者がこの世界と相互作用したときに予想されることを記述する。ところがこの世界には、外側の観察者など存在しない。あの解釈は、この世界の事実をつかみ損なっているのだ
空観とは、最初に悟ってしまえ、ということです

空海がすごいのは、空を表現するために、密教を日本人向けにアレンジしたことです。法身として実態のない大日如来を曼荼羅で示して、縁起という仏教の本質にまで私たちを導こうとしたのです。表面的には釈迦にもっとも遠いようでありながら、釈迦にもっとも接近していたのが空海であったと私は考えています(中略)この考え方(※大乗思想)を知っておいたほうが、空海の密教はより充実(中略)釈迦の悟りの世界は、姿や形はありませんが、曼荼羅を通して見ることができます(中略)密教の教えは、文字で表すことは難しい。ですから、曼荼羅などの図面をかりて、みなさんにお伝えしている(中略)(※高雄山寺(神護寺)は)もともと和気氏の私寺でしたが、空海が京都に入ることを許されたとき、このお寺に留まりました。この地を起点にして最澄との交流が始まり、日本仏教の夜が明けた(中略)東大寺には真言院があります。空海は東大寺の別当を務めていました。東大寺は空海ととても関係性の深いお寺なのです。その名残は今もあります。大仏の前で読誦されるお経は『華厳経』ではなく、『理趣経』です。『理趣経』は真言宗の根本経典であり、それが東大寺で毎日読誦されていることを考えると、空海の影響力がいかに大きかったのかが理解できます(中略)(※空海は)人間の心を十段階に分けて、仏教の諸宗派をその各段階に振り分けました。ちなみに、最澄の天台宗は第八、華厳宗が第九、密教が第十段階となっています。大乗仏教のなかで華厳宗をもっとも高く評価した空海は、その下に最澄の天台宗を位置づけました。このように書くと、空海はなんと「意地悪な」人なんだ!と感じるかもしれませんが、この分類は空海独自のものではありません。『大日経』という密教経典の思想に基づいたもの(中略)空海の本質は易行(中略)空海の考え方、つまり、即身成仏(※今ここで、大日如来を受け入れること。大日如来という力にすべてをゆだねて生きること大日如来は空であり識であり、宇宙全体を統治する原理そのもの。大日如来は私たちの目には見えない存在であり高度に抽象化された概念を指す)の考え方を理解するならば、すべての人は悟ることができ、涅槃に行くことができます (中略)縁起を簡単に言い換えるならば、「この世に完全なものはない」ということです。未来永劫続くものなど何一つありません。無常です。それを心から理解することが悟るということ(中略)空観とは、最初に悟ってしまえ、ということです。この世の常なるものはないということを理解する。つまり、縁起という本質をわかってしまいなさいということです。別の言い方をすると、現象世界を否定すること(中略)次に仮観とは、空観で否定した現実世界を、仮の世界ではあるけれども、肯定的にとらえ直すことです。もう少し具体的にいうと、仮の世界において自分自身の役割を果たす(中略)しかし、仮観に留ってしまっては仏教の本質から離れてしまうので、また空観に戻らなくてはなりません。このように空と仮を行ったり来たりしながら、一番よい状態にあることを中庸といったり、中観といったりします。 仮観に偏りすぎると、生きることの本質から離れていきます。しかし、空観によりすぎても、現実生活から離れすぎて生活できなくなります。ですから、仮観でもなく空観でもない第三の道を選択しなければならないのです。それが中観という考え方です。いい按配を見つけてください(中略)釈迦の悟りの世界は、姿や形はありませんが、曼荼羅を通して見ることができます(中略)密教は仏教を越え、芸術を越え、エンターテイメントでさえあるころが実感できます。時空を超えて空海の偉大さが感じられる唯一無二の空間───苫米地英人博士(著書名失念)※引用者加筆.

密教(天台宗の比叡山にも一応密教がある。台密と言う)は、その正体はチベット仏教でありそれはローマ・カトリック教会のしくみそのもの

曼荼羅図に表れるチベット仏教とは、まさしくローマ・カトリック教会の教え(思想)そのものである。「神と子と聖霊の三位一体」の図が、チベット仏教の曼荼羅図だ。チベット仏教は7世紀に生まれた新しい仏教だ。その前には存在しない。そしてチベット仏教の密教と、顕教という考え方は、ローマ・カトリック教会がいう聖界(ディヴィ二ティ divinity)と俗界(セキュラー secler)の区別と、ものすごくよく似ている。空海が西暦806年に真言宗として日本に伝えた密教(天台宗の比叡山にも一応密教がある。台密と言う)は、その正体はチベット仏教でありそれはローマ・カトリック教会のしくみそのものだ(中略)「千日回峰行」というような数年間も続く最大の荒行は、あれは、チベット仏教とヒンドゥー教の影響であって、お釈迦さまの教えとは無縁だ

950〜1571年まで焼き討ち合戦を繰り広げた法相宗の支持者、副島隆彦氏と天台宗僧侶、苫米地英人博士。

「法華経」(妙法蓮華経)というお経(仏典)を最高の仏教の経典であるという考えに凝り固まって、日本仏教の中で自分たちが一番頭がいいと信じ込んできた系譜がある。これが日本では天台法華宗(比叡山は、中国の天台宗の日本でのフランチャイズなのに法華経を一番ありがたがる。ここでおかしなことになったのだ)を京都の町衆も信仰した。13世紀に日蓮という男に表れる強固な特殊日本化した法華経にもなった(中略)奈良の東大寺や興福寺、そして三井寺(園城寺)こそは、法相宗(「死ねば終わり」)の宗派である。これと激しく対立したのが、比叡山延暦寺の天台宗なのである(中略)互いの寺まで押しかけていって、焼き討ち合戦までした。これを実に600年(950〜1571年まで)も続けたのである(中略)日本に空海が持ち込んだの真言宗(本当はチベット仏教)の最高経典は『大日経』と『金剛頂経(こんごうちょうきょう)』である。チベット仏教(ラマ教)は、どのように成立したか。今のネパールの北側のヒマラヤ山脈一帯とその北側がチベットである。最高峰はエベレスト(中国名はチョモランマ、8848メートル)である。チベット仏教は7世紀に始まった。それ以前には、チベットには仏教は入っていない。吐蕃王国の時代にインドから伝わり、ラサの都を中心に発展した大乗仏教の一派である。だから、玄奘がインドにいた640年頃に、後期インド仏教の教理がチベットで密教を作った。チベット仏教の密教は頑なに僧侶中心主義の祈祷宗教である。呪術と儀礼を強調する。

仏教には多くの宗派がある。その中にあって、教義だけがあって、特別の信者集団もお墓もないという宗派がある。それが唯識の法相宗である。欧米の宗教常識から見ればありえないこの宗派が、いわば仏教の根本的な教義を説く宗派なのだ(中略)この法相宗という、ブッダその人の思いを最も正しく強固に保存している宗派について、次のように鋭く解説した。それはまさしく「輪廻転生」の否定である。唯識の思想は大変難解だが、一言でいえば、「万物流転(ばんぶつるてん)」、すべてのものは移り変わる、ということである(中略)仏教の「空」という論理は、すべてが仮説であり、すべては関係であって、実在するものは何もない、というものである(中略)中国で浄土宗が西暦472年に創始された、と言っても、前述したように、その正体はキリスト教(マリア崇拝)である。「ただひたすら神の名を唱えよ」とするキリスト教の教えの「アーメン」と同じものとしての「南無(ひたすら帰依します)阿弥陀仏(アミダブツ)さまに」である(中略)浄土宗が中国で、どのように始まったかを私は調べていた。そうしたらどうも、法華経=観音経の系列の方も、どうやら「助けてくれ、助けてくれ」の救済(を求める)宗教であることがわかった。では、この観世音菩薩(観音さま)すなわちアバローキャーティーシュヴァラーとは、何者か?①阿弥陀様も②観音さまも③弥勒菩薩も、3人とも明らかに女の女神様である。そしてその正体は、イエス・キリストの奥様であったマグダレーナ・マリア(母親ではない奥様のマリアさま)その人である(中略)大仏はゼウスさまである。チベット仏教の曼荼羅図で日本にも伝わった。これらを空海が持ち帰った(中略)曼荼羅の真ん中に大きくゼウス(大日如来)を置いて、その脇にゼウスの子としてキリストという形になっている。ローマのサンピエトロ大聖堂の裏のヴァチカン美術館のシスチナ礼拝堂の天井壁画と同じ構図だ。だから、ゼウスの子どものイエス・キリストと同じ釈迦如来(お釈迦さま)である

唯識思想を生み出しのはいわゆる瑜伽行派と呼ばれる、ヨーガを修行として実践していた人たちで、最初に弥勒(マイトレーヤ)が理論を体系化し、それを弟子の無着(アサンガ)と世親(バスバンドゥ)の二人が発展させました。それがだいたい五世紀後半のことだと言われています。ちなみに無着と世親は上座部仏教を学んでいた。しかし、やがて世親は兄に感化されて、大乗に転向して『唯識三十頌』をはじめとする論書を著して、唯識説を完成させたと言われています。それにしても兄弟二人とも歴史に残る業績を残したというのだから、たいしたものです。兄弟の出身地はインドのペシャワール地方(※現在のパキスタンの北西部)(中略)この世親にはアビダルマの教説を集大成した『倶舎論』(阿毘達磨倶舎論)という著書もありますが、彼ら唯識派の人々はアビダルマの理論を徹底的に研究し、その結果、アビダルマだけでは人間の心の成り立ちを説明できないことに気付いたのでしょう。つまり、人間の認識作用は六識だけではきちんと説明できない、それよりももっと深いところに心の働きがあるんじゃないかと考えるようになったのです(中略)そこで彼らが「発見」したのは、六識の下に阿頼耶識(※人間の認識作用の最も根底の八番目)と末那識(※七番目)の二つの識があるということでした(中略)六識からの情報は怒涛のように阿頼耶識に流れ込む、しかし、その情報を取り出すのを拒むのが第七識である末那識である(中略)末那識があるがゆえに私たちは直接、阿頼耶識にアクセスできない(中略)この観点からすれば誰もが平等に悟りの可能性を阿頼耶識の中に宿しているということになります。唯識説から学ぶべきはまさにそのことだろうと思います(中略)あらゆる人に悟りの可能性としての阿頼耶識が等しく備わっていると同時に末那識も等しく備わっている。これが人間のやっかいなところです。どんなに学問があっても、どんなに社会経験を積んでも煩悩からは逃れられない(中略)「マナ」とは本来は「考える」という意味なのですが、現代の言葉では「自我」と表現したほうが分かりやすいでしょう(中略)阿頼耶識の「阿頼耶」とはサンスクリットの「アーラヤ」に漢字を当てはめたもので、本来の意味は「住処(すみか)」ということですが、ここでは「蔵」「倉庫」というくらいの意味で理解したほうが正解です。ちなみにチベットのヒマラヤは、サンスクリットの「ヒマ」(雪)と「アーラヤ」が合成された言葉で、「雪の家」「雪の山」といった意味になります(中略)阿頼耶識のことを「根本識(こんぽんしき)」とも言う※引用者加筆.

梵我一如とはアートマン、生まれ変わりのこと(輪廻転生)→カースト制度の差別思想。 ブッダはこの差別思想を否定することで人気を博した。 その後、再び差別思想を肯定したマクロビオティックは権力者らの人気を得た。

七世紀頃になると、中期密教の時代になります。 これが空海が日本にもたらした密教で、密教がインドの地でもっとも隆盛していたころのものです(中略)中期密教の特徴は、なんといっても大日如来が教主になったことです。 生きているうちに成仏することが究極の目標となり、大乗仏教思想と密教儀礼との融合がはかられました。 身口意による三密が重視され (身口意については後ほど詳述します)、諸尊 (仏や神々) は曼荼羅という図像に組み入れられることになりました(中略)修行僧は小乗から始めて大乗に至り、その後、許された物だけが密教を学ぶ階梯になっています(中略)チベット密教では 「密教」 のステージまで至る人は、かなりの高僧だといえます(中略)また後期密教では、中期密教がもつ絢爛豪華な儀式はなりをひそめ、質素なイメージになりました。 まず日本の密教で見られる護摩はありません。 曼荼羅も完成後すぐに壊される砂曼荼羅になっています(中略)儀式が簡略化される一方で、瞑想法は多くのバリエーションが存在します。 儀式中心の身体的・物体的空間から瞑想中心の情報空間へ。 つまり 「空」 の世界へと移行したのです(中略)大乗仏教の唯識では六識の下にさらに末那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)を加えて八識。末那識(倉の入り口)は執着する自我(エゴ)。阿頼耶識(あらやしき)→心理学では深層心理、無意識のこと(中略)ナートマン(natman、nは否定形)とはアートマンの否定形。仏教の本質的、中心的な考え方。アートマンは生まれ変わりのこと。雲のように変化し続ける自我はあるともいえるし、ないともいえる───苫米地英人博士(著書名失念)

般若心経はナーガールジュナ(龍樹)が作者といわれる。「色即是空空即是色」は誤訳で「色即是無無即是色」↓

今や『般若心経』といえばポピュラーなお経の一つですが、元はといえば「アンファン・テリブル」( 「おそるべきやんちゃ坊主」という意味のフランス語)だったはずです(中略)つまり、釈尊ではなく、名前も聞いたことのない菩薩からお経が始まるというのは、前代未聞のことだったのです。そこには、釈尊の「しゃ」の字もありません───ネルケ無方住職(著書名失念)

弥勒下生と言うが、これは「キリストの再臨(降臨)」と同じことだ。どうしてこのことを日本では誰も言わないで明治からでさえ150年が経ったのか。これらの真実は、紀元後2世紀から仏教の中にキリスト教が紛れ込んで脈々と繋がってきたことを意味する。ここで謎解きをする。仏教の教理の中で一番高度で深遠でレベルが高いとされるのが中観と「空の思想」とされる。この「中観」と「空」を創始したのは龍樹(ナーガール・ジュナ、紀元150〜250とされる)という人である。この龍樹が問題なのだ。大乗仏教を作ったのは龍樹であり、故に「(大乗)八宗の祖」とまで持ち上げられる。ここでキリスト教がブッダ(お釈迦様)の思想と混ざってしまったのである。

現象を成り立たせているのは物事の関係性であり、その関係性が「空」という概念です。この世のすべての現象は、その関係性次第で「有であり、無である」ということです。これを量子論の超ひも理論に当てはめると、ひもが振動しているときが、「有」で、振動していないときが「無」であるということになるでしょう(中略)振動していないときを真空というわけです(中略)定義上は、ひもは計測不能だから「ない」ということになっています───苫米地英人博士(著書名失念)

ナーガールジュナの著作の中心となっているのは、ほかのものとは無関係にそれ自体で存在するものはない、という単純な主張(中略)ナーガールジュナは、独立した存在があり得ないということを、「空(くう)」(sunyata シャーニャーター)という専門用語で表している。事物は、自立的な存在でないという意味で「空」なのだ。事物はほかのものの働きとして、ほかのものとの関係で、ほかのものの視点から、存在(中略)構造は対象に先立つのではなく、対象に先立たない訳でもない。先立ちかつ先立たないわけではなく、最後に、どちらでもないわけでもない(中略)錯覚だと悟ることで涅槃(nirvana ニルヴァーナ)、すなわち解放と至福に到達(中略)いかなる視点も別の視点と依存し合うときにのみ存在するのであって、究極の実在は金輪際存在しない(中略)空でさえも本質を持たない(中略)空は空なるもの(中略)ナーガールジュナの視点は、決して形而上学的な奇想の産物ではなく、むしろ中庸である。そこには、あらゆるものの究極の基礎を問うことはまったく無意味だ、という悟り

量子力学によって、物理世界そのものが相関、つまり相対情報の網であることが明らかになった。自然界の事物は、尊大な個人主義に陥った孤立する要素の集まりではない。意味や志向性は、至るところに存在する相関の特別な例でしかない。わたしたちの心的生活における意味の世界と物理世界はつながっている。ともに、関係なのだ(中略)「情報を持」てば、必然的に予想もできることになる(中略)量子力学の多世界解釈の難点(中略)あの解釈は、外にいる観察者がこの世界と相互作用したときに予想されることを記述する。ところがこの世界には、外側の観察者など存在しない。あの解釈は、この世界の事実をつかみ損なっているのだ(中略)文化とは、経験や知識、そして何よりも他者とのやり取りを糧としてわたしたちを豊かにしてくれる、果てしない対話なのである(中略)現象の世界こそが、探索し、じょじょに理解を深めていける世界(中略)現実について考えるための新たな地図、自分たちにとっての世界をもう少し正確に記述する地図を、発見する。それが量子論




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