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つねに真実を語ることは「競争上の優位」になる

禅はマイナス要因をプラスに転じなさい、と教えます。一見悪条件と思われる部分についても、それがあるからこそ、このデザインができるのだ、という捉え方をする(中略)「禅即行動」。あれこれ考えずに、まずは行動に起こすこと。これが禅の基本的な考え方───曹洞宗徳雄山建功寺 枡野俊明住職(著書名失念)

関心をつかむ最も基本的な方法は、パターンを破ることだ。

「隻手の声」禅宗の公案

第七章 片手が鳴る音(中略)ドッズ夫人はそろそろ忍耐の限界にきていた。なぜまわりの人間はみな、医師もセラピストも、それに息子まで、私の左手が麻痺していると言い張るのだろう(中略)もちろん彼女は自分が二週間前に脳卒中の発作を起こしたことも、そのためにこのカリフォルニア大学ヒルクレスト医療センターに入院していることも承知していた(中略)卒中で右半球に損傷を受けたドッズ夫人は、実際は左半身が完全に麻痺(中略)右半球に損傷のある患者のなかには、ドッズ夫人のように、自分の窮境に無関心なようすで、左半身が完全に麻痺しているという事実に気づかない人たちがいる───たとえほかの面では問題なく頭がはっきりしていても。この奇妙な障害───左の腕や脚が麻痺していることを無視する、あるいはときに否認する傾向は───は、一九〇八年にフランスの神経科医ジョゼフ・フランソワ・バビンスキーによって初めて臨床的に観察され、 anosognosia(「病気・病態に気づかない状態」)と名づけられた(日本語では病態失認(中略)ドッズ夫人は私の顔をちらっと見て、右手で手をたたく動作をした、体のまんなかあたりで想像の手とたたきあっているようなしぐさだった。「いま手をたたいていますか?」「ええ、たたいています」 私は実際に手をたたいている音が聞こえるかとたずねるだけの勇気がなかった。もしたずねていたら、「片手の拍手はどんな音がするか?」という禅の永遠の公案ないしは謎かけの答えが見つかっていたかもしれない。しかし、禅の公案をもちだすまでもなく、ドッズ夫人が提起した謎はどの点から見ても、実存の非二元的な性質を理解しようとする取り組みと同じくらい不可思議であるのはわかる。なぜこの女性は、あきらかに正気で、知性もあり、言葉もはっきりしているのに、自分に麻痺があることを否定するのだろうか(中略)左手で何かをつかもうとしたり、あるいは単に手をのばそうとしたことが何十回もあったはずだが、その手はいつも死んだように膝の上にあった。どうして私の鼻をさわっているのが「見える」などと言い張ることができるのだろう(中略)実のところ、ドッズ夫人の作話は極端なタイプである。否認の患者は、左手を使ってみせてくれと言われると、なぜ動かないかについて常軌を逸した弁解や合理化をするのがふつうで、実際に手や足が動いているのが見えると言い張る人はあまりいない。たとえばセシリアという名の女性患者は、なぜ私の鼻にさわらないのか聞くと、ちょっと憤慨したように答えた。 「だって先生、この医学生の人たちが一日中あれこれ言ったり、じろじろ見たりするんですよ。うんざりします。だから手を動かしたくないんです」(中略)エスメラルダという患者は、別の作戦をとった(中略)肩にひどい関節炎があるんです。わかりますよね、先生、痛いんです。いまは動かせません」彼女は別の機会には、ほかの言いわけを使った。「私は両手利きじゃなくて不器用なんです、先生」こうした患者を見ていると、拡大鏡を通して人間性を観察しているような気がする。人間がありとあらゆる愚かさや、自己欺瞞に走りやすい傾向をもっていることに気づかされるのだ。

道元の典座教訓

道元禅師が中国に渡ったとき、彼自身が台所の手伝いをしたという話はない。道元禅師も上流階級の出身で、ある程度の資金を持って渡ったわけだから、それなりの扱いをされただろう。中国でも僧侶がみな田畑や台所で働いていたのではなく、階級の低い僧侶や寺男たちが働いていたわけだ。

自分本位

小乗というのは、平たく言えば、自分が解脱するために修行することです。衆生の救済と目的とする「大乗」と異なり、まったくの自分本位です。そのため、大乗仏教はそうした教義を持つ宗派を差別的に「小乗仏教」と呼びました。だからといって、自分本位はダメな考え方だ、というわけではありません。たとえば、達磨はインド南部の国の第3王子でしたが、洞窟に9年間座り続けて、足を腐らせてしまいました。ふつうに考えれば、これはずいぶん愚かな話(中略)足を腐らせるくらいの一途な思いがあるのなら、貧しい人を救ったり、社会を変えることに力を注いだり、ほかにやることはいくらでもあったことでしょう。ところが、そんなことは棚に置いて、彼はひたすら坐禅を組み、足を腐らせてしまいます。そして、そんな達磨のことを、「素晴らしい修行者」「坐禅の開祖」と称賛するわけですから、世間もどうかしています───苫米地英人博士(著書名失念)

結局はお金が大事。自分の生活の豊かさが大事

ナイアリズムをドイツ語でニヒリズムと言う。虚無の思想に行き着いた。だから、禅宗の坊主は、一切衆生の救済なんか絶対に言わない。と言いながら、それではさらに何に行き着いたかと言うと、何とまぁ「結局はお金が大事。自分の生活の豊かさが大事」になったのである。そして、今の京都の中の禅寺の観光寺(拝観料で何百円もふんだくる)の大きなお寺の全ての管主(高僧)たちは、「生ぐさ坊主たちである」(中略)京都の人たちは、このことをよく知っている。白たび様という。生臭坊主であることこそは、人世に疲れ果てた禅宗の思想が本当に行き着いた涯ての涯てなのである。そして私はこれを良しとする。偽善(ヒポクリシー)がなく己れに正直でありさえすれば、私は、その人々の生き方をすべて認める(中略)対して貧しい民衆や百姓や労働者は、いつの時代も「助けてくれ、助けてくれ」だ。だから、浄土宗や天台法華宗(含む日蓮宗)の方に多く人が集まる(中略)臨済宗の僧たちは貿易文書を中国文で、サラサラと書けた秀才インテリたちだった(中略)勉強秀才だから中国の儒教の中の朱子学ばかりを勉強していた。これが禅宗の本当の姿だ(中略)だから仏教なんか、やっていなかっただろう。このことの奇妙さを今の日本の国文学系の知識人たちでさえ分かっていない。禅宗には、宗教やお釈迦様にすがりついて助けてくれ、という思想がない(中略)禅宗は、「神も仏も信じない」のである。本当の本当は、これは「やっぱりこの世(現世)では、お金(資金、資本、資産)が一番大事」という思想である。禅宗は人間なるものを突き詰めた思想(中略)もしかしたら今の禅宗坊主(和尚)たち自身が、この自分たちの根本教理(思想)である「救済などない」「自力だけだ」の意味を忘れてしまったのではないか。困ったことだ。禅宗はだからこそ 〝本当の大人の思想〟、〝保守の思想〟として、新しい思想流派として、日本にも根付き大きく栄え、そして今も日本全国に禅寺がある(中略)「自分たちだけ深い境地に至りついた」気になっている曹洞宗ほど、この傾向が強い。道元の曹洞宗は貴族や上級武士たちのための宗派である。本来の保守の思想だから当然だ。そうであるものだから、この宗派の葬式代が一番高い、と今も人々に言われている(中略)中国で6世紀に生まれた禅宗は、10世紀からの宋朝と、それの南への亡命政権である12世紀からの南宋帝国で流行した。日本には鎌倉時代に伝来して栄えた。北方遊牧民族の遼や金(女真、満州族)そして元(モンゴル族)の南下に追われて南に移った南宋という漢民族の亡命政権の仏教思想だ。禅宗は、風流と高雅を愛する「竹林の七賢」を理想とするから、士大夫と呼ばれる中国の土着の知識人階級に支持された。これに対し、禅宗の高級仏教になじめない庶民は、やっぱり阿弥陀様のような人格神に救済を求める浄土信仰に向かっただろう(中略)禅宗は、ひたすら座禅をすることと、「公案」で厳しく議論すること以外には、何もしない。日本の禅宗の坊主たちは、そのことを知っている。優れた禅僧なら「自分たちは何も信じていない。お釈迦様さえ信じていない」とはっきり言うだろう。空海と同じ遣唐使船で中国に渡った(804年)最澄によって日本へもたらされた天台宗の方は、何度でも書くが法華経を根本経典としている。法華経は観音様信仰だから民衆救済思想である───副島隆彦氏(著書名失念)

禅宗は「達磨宗」

もともと「禅」とか「禅門」というのは、天台宗のことを指していて、禅宗は「達磨宗」と名乗っていました。

もともと「禅」とか「禅門」というのは、天台宗のこと

日本に伝わった禅宗の発祥の寺は、洛陽にある少林寺(嵩山少林寺)である。えっ?少林寺が禅宗の大本山なのかと驚くだろう。そうなのである(中略)この少林寺拳法が、後に台湾・沖縄経由で日本に伝わり古武道や拳法そして空手(=唐手)となった(中略)少林寺は古くからの都である洛陽にある。西安(長安)を真東の方に400キロのところである。正確には洛陽市よりも隣の鄭州市にある。ここが今は河南省の省都である。河南省こそは、漢民族(Han race)の故郷だ、とされる。だからこの洛陽の近くに、今の北京からやがて首都(政治都市機能)を移す計画がある。この少林寺にダルマさまがインドからやって来た(中略)大内氏は明らかに中国系(華僑)で貿易商だった。大内氏が初めは日明貿易の権益を握っていた。その後は、大内氏を破った毛利氏による密貿易が中心となっていった(中略)臨済宗では僧侶が中国式の朱塗りの椅子に座っている。禅宗である臨済宗は、全て中国式の建物(中略)そして、何と、この日本の禅僧たちが信じたのは朱子学である。彼らは前述した理由の通り、仏僧のくせにブッダの思想を(仏典)を信じていない。彼らは仏典よりも朱子学(儒教)という外国の文献を必死で読んだ(中略)実は今も「禅宗にはお経がない」(中略)それでは葬式仏教をやって金儲け(僧侶の生活費の獲得)ができない。信者たちを騙す手口がない。それで禅宗は、やっぱり仕方がないので「般若心経」と「観音経」を他宗から借りてきて自分たちも唱えることにした。ちっとも信じていないのに、そうしないと本当に葬式仏教ができないのだ。※禅宗の観音経とは、法華経(妙法蓮華経)の中の観世音菩薩普門品25品目(第25章)のこと。※引用者加筆.

引用者の意見は、達磨自身は時の皇帝に意見を述べるほど立派な人物だったのではないか、というものである。しかし、現在の日本の宗教政治、政治宗教の文脈では、達磨宗も自称するように禅マクロビオティックとしての政治宗教であることは、私自身も多くの取材から認識している。達磨宗の著作にいい話が多いのは、嘘ばかりでは本自体が売れないし、新しい信者も増えないからだ。

臨床家たちは、サイコパスが不安や恐怖を効果的に押しとどめてしまう、強力な心的防衛機制をもっているとしばしば言う。研究室での研究でもそれはわかっていて、彼らにはストレスに対処できる生物学的な能力があるのかもしれないという見かたをしている。

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