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モンテーニュはこうも書いている。「人生の価値は、その長さではなく、その使い方にある」と。

映画『この世界の片隅に』では、主人公がつらい状況にある中で、画面の片隅に花が咲いています(中略)今から死のうという時に、ふっと、川辺の桜のつぼみを見たら、「花が咲くところを見てからにしようかな」と思います(中略)映画監督は、映画の登場人物が悲惨な状況の時、必ずそこに美しいものを入れます。

明治政府は、より優秀な奴隷を育てる洗脳教育のツールとして、新しい宗教をつくりだしたのだ。それが国家神道だ(中略)明治以前の日本には、宗教という概念さえ存在しなかった(中略)だいたいにおいて、宗教学がキリスト教的発想で成り立っている。宗教学で言う宗教の概念に合わせてつくったのが国家神道だ(中略)日本古来の神道を利用して、新たな宗教を明治政府につくらせ、一神教的な神の役割を天皇に担わせた支配システム(中略)明治政府は意図的に国家神道は支配者の宗教とし、民間には仏教を残したのである。どちらにしても、儒教の差別思想を根底としていることに変わりはない(中略)インドのバラモン教とヒンズー教のような関係

日本という国は神道を徹底的に作り直した。伝統的な神道は、さまざまな神や霊や魔物を信じるアミニズムの信仰の寄せ集めで、どの村も、どの寺も、お気に入りの霊や地元の風習を持っていた(中略)(※一九世紀後期から)日本は神道の公式版(※国家神道)を作り出し、地方の伝統を数多く廃止(中略)そして国家への忠誠を強固にするのに役立ちうるものなら、仏教や儒教、封建制度の武士の気風のどんな要素も、そこに加えた。仕上げに、国家神道は至上の原理として天皇崇拝を神聖化した(中略)これは近代の工業大国というよりもむしろ新石器時代の族長支配のように聞こえる(中略)(※ところが)国家に対する熱狂的な忠誠心を育んだ。神道国家の成功の象徴として最も有名なのは、日本が他の大国に先駆けて、精密誘導ミサイルを開発した事実だ。このミサイルは、「カミカゼ」として知られている(中略)このような任務に就く意欲は、国家神道に培われた、命知らずの自己犠牲精神の産物だった。このようにカミカゼは、最新のテクノロジーと最新の宗教的教化の組み合わせを拠り所としていたのだった。知ってか知らずか、今日非常に多くの政府が日本の例に倣っている ※引用者加筆.

超国家主義の悲劇は、周知のように本邦にも存在し、多くの死と不幸を人々にもたらした。軍閥は相克しつつ堕落し、良識ある国民、特に知識階級に対しては、国家神道の強制、および治安維持法(ナチスに負けない)残忍な逮捕、無期限な留置、拷問、懲役、で「転向」を強制するのであった。戦争の末期に至るや、「特攻」作戦と称して強制的な命令によって、あらゆる中古機、練習機、古い水上機などを主として、これを爆装して、陸海軍合わせてなんと七千名の少年兵出身で、やっと操縦できる程度の練度の低いパイロットをのせて、いわゆる「神風(しんぷう)」の体当たり作戦に投じ、ほとんど全滅であった。

佐賀藩の大学者として、「寛政の三博士」と呼ばれた古賀精里(せいり)という人物がいた(中略)中国で紀元前二〇二年に「四面楚歌」で後世に名を残した項羽(こうう)を滅ぼし、長安を都にして漢王朝を創立した高祖・劉邦(りゅうほう)という皇帝がいたが、古賀精里はその末裔といい。本性は劉だが、子孫が筑後の三潴(みづま)群古賀村に住して古賀を名乗り、のち佐賀藩士となった一族と伝えられる。 孔子の国から来たのだから、日本人など足元にもおよばない儒学者だ。 一七八一年に佐賀藩校の弘道館を興して校長となった古賀精里は、将軍・徳川家斉(いえなり)の時代に幕府から江戸に招かれて、一七九六年には幕府儒学校の昌平黌(しょうへいこう)儒官すなわち総長となって、日本の儒学最高指導者となった(中略)古賀精里には三人の息子があって、長男の古賀穀堂(こくどう)が次代の藩主・鍋島閑叟(かんそう)を育ててゆき、また三男の古賀侗庵(とうあん)が尚歯会メンバーとして渡辺崋山たちと交流しながら、佐賀藩を大改革していったのである。さらに古賀侗庵の息子・古賀謹一郎が、幕末に全国の蘭学者・洋学者を育てるために幕府が設立した蕃書調所の頭取に抜擢されて、日本のすべての洋学者を統率するリーダーとなっていった(中略)閑叟は江戸で育てられたので、一八一九年に古賀穀堂が江戸に出て、藩主の世嗣・鍋島閑叟の御側頭(おそばがしら)として教育係となり、以後一二年間にわたって主に江戸で教育を施した

佐賀は江戸時代に佐嘉と書いたが、明治維新の時に佐賀と改められた。鍋島家が佐賀藩主となる前には、この一帯の支配者は、近江三上山の百足(むかで)退治で有名な俵藤太秀郷(たわらとうたひでさと)を遠祖とする龍造寺(りゅうぞうじ)家だったが、そこに養子に入った鍋島直茂が龍造寺家を乗っ取った時代の「化け猫騒動」は団十郎の歌舞伎に任せる(中略)武士の修養書『葉隠(はがくれ)』一一巻(正しくは『葉隠聞書(はがくれききがき)』)が成立すると、これが葉隠論語、鍋島論語とも呼ばれ、「武士道とは、死ぬことと見つけたり」とする武力だけが奨励され、学問は取るに足らないこと、とする武士道精神が藩内を闊歩するようになった。死ぬことと見つけたりとは、戦時中の大日本帝国の「特攻隊精神」の原型(中略)一〇〇年ほど続いてきた佐賀藩伝統の武士道の書『葉隠』が、学問は取るに足らないことと蔑み、「武士道とは、死ぬことと見つけたり」と説いていることを古賀穀堂が痛烈に批判し、この事件後、彼が名君・鍋島閑叟を育てることになる(中略)佐賀藩の伝統的武士道『葉隠』を捨てよ、とする画期的な意見(※を古賀穀堂は述べた)※引用者加筆.

死を見極めると、本当にやりたいことが明確に見えてきます。同時にどうでもいいこともわかってくる。だから、時間を無駄にすることもないのです

琉球大学の調査によれば、沖縄県と比較した場合に、福島県地域でチョウチョ(ヤマトシジミ)に明らかな異常が認められ、放射能の影響が第一世代から第二世代にもおよんでいることが確かめられている。

昨夜、矢ヶ崎克馬琉球大学名誉教授や福島原発事故の避難者の皆さんと一緒に野原千代さんのご遺体と対面してきました。 矢ヶ崎克馬先生のおっしゃった「野原千代さんは彗星のごとく現れ、あっという間に偉大な成果を成し遂げられた」という言葉が、内部被曝の研究者としての野原千代さんの4年弱という非常に短い…しかし決して朽ちることのない研究者人生を表していると思います。

モンテーニュはこうも書いている。「人生の価値は、その長さではなく、その使い方にある」と。

大プリニウスのように、危険地帯へまっしぐらに向かったヤマトシジミの研究者の方々の冥福を祈ります。

私(当時、優生保護法、染色体問題に対応して30年目、集団隠蔽に取り組んで14年目)は、2011年3月14日から海外のSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)を見ていたため、六ヶ所(村)の動向を注視すべく札幌から沖縄の台湾行きフェリーターミナル前のホテルに避難していた(フェリーの予約をし続けていた)。民主党政権時、ガンを患っていた野原千代さんが(私に)声をかけてくださり、琉球大学の研究室に案内してくださった(私の運転で)。それ以外にも何度か二人でお会いする機会もいただき、多くのことを学ばせていただいた。野原さん自身、自分の置かれた状況を理解し、残された時間を治病に費やすのではなく、後世に功績を残すことに費やすという選択をした。それは研究者であるからこその選択であり、ただがんに罹患した人は、病気を治すことに専念するしかないのだと思う。私は福島原発事故直後から、退避火に追われており、被爆された方々を助けることができなかった。私自身、個別にお返事する時間がないのですが、「マインドウィスパリング スペース 調べたいワード」でnote内検索していただければ、詳しく検証した記事が見つかると思います。

関連リンク↓

https://note.com/wandering_1234/n/nfdd72dd8b71a




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