「けものフレンズ2」で心のSABANNAを生き抜け

よく来たな。おれは澤村求深だ。この記事はけもフレ2を2話まで見たおれの乾燥と意見がぶつけられた刺激てきなコラムだ

おれはコラムを書くのは初めてだが中途半端なことをするつもりはない。これを読むことでおまえは今後けもフレ2を見たときに今までにないバイアスがかかる可能性がかくじつに高い。けもフレ2を楽しく視聴しているのであればこの記事は雑音でしかない、今すぐブラウザバックしドリトスを食え。ここから先はサバンナだ。



 おれたち呪われている

いきなりぼっそうな話でとまどっているだろうがこれは「けものフレンズ」を愛するある特定の層に当てはまる真実。それはけもフレ1期を見たうえでけもフレ2を2話まで視聴した者たちだ。おれを含めそいつらはけもフレ1期の鮮烈な13週間を体感し、「スゴイ!これがけものフレンズか!」とニューロンに焼き付いている。そしてたつき降板からはじまる一連の騒動を知っている。つまりどういうことか?けもフレ2をそのバイアスなしで見ることができないのだ。irodoriが外れたことによりCGが違う。構成が変わったことによりフレンズのチョイスもたつきとは違うセンスで行われている。動物紹介も電話越しじゃないしセルリアンがよりキモイ的だ。etc...それらのバイアス要素は純粋に楽しもうと見ていてもふとした時に比較対象となってしまう。「CGは良くなったけどモーションが演技的になったなぁ」とか「フレンズのコンビリングが似たような動物だなぁ」とかだ。こういったメタ的な比較は言わずもがな作品を楽しむうえで邪魔になる。ストーリーに集中できないという致命的なインシデントを誘発するのだ。

けもフレ2から見始めた人間にこれは怒らない。けもフレ1期という愛を知っているが故のジレンマだ。おれたちはまさに楽園を追放されたアダムとかイブなのだ。


 キャラメルポップコーンが嫌いなやつに明日はない

楽園の外側からけもフレ2の1話を見ておれはあることに気付いた。描写やストーリー構成がよりわかり易くなっている。これは悪い意味でだ、キュルルの直面する問題の難度が低く、解決した際のカタルシスがほとんど無い。これはまだいい。問題はフレンズが得意技を発揮する場面もセルリアンとの戦闘以外はほとんど無いことだ、動物らしい特徴はアルマジロコンビが丸まったくらいで動物由来の性格は彼女たちじしんが口頭で説明するか動物紹介コーナーでみるのがメインとなってしまっている。これは擬人化をコンセプトとするコンテンチュにおいてかなり大きな問題であり、映像作品としては致命的なもんだいだ。けものフレンズの場合動物らしい描写が減ればそれに直結してキャラクターが希薄になってしまう。つまり作品としての魅力も薄れてしまうのだ。

「けものフレンズ」は小さい子供にもそれなりにウケていた。そこを意識した作りにもなっているが今のところ完全に失敗だ。子供も見れる作品から子供だましの作品になりかねないリスクがかなり高い。たしかに作品のとげは完全に落とされ、わかり易く全人類が均等に楽しめる。しかしそれは同時に子供だましの起点でもあるのだ。「子供たちよ、カッコいいとはこういうことだ、大切な事とはこういうものなんだ。それを伝えてやる!」「子供たちよ、こういうのがカッコいいンだろう?君たちはきっとこういうのが好きだろうはいどうぞ」これが子供向けと子供だましの違いだ。そしてこのメソッドは子供向けじゃなくてもおなじだ。「視聴者はこういうのがいいだろうから・・・」そういうバーター的な作りはプロアマ問わずしてはいけない。けもフレ2はその戸口に立っている。非常に危険だ。2話までを見た印象、フレンズのキャラクターや言動、仕草はまさに「セオリーを1ミリもズレない確実に売れる商品」のそれであり、理数的な無機質さを深層心理にうえつける。おおげさな話ではない、本当に危険なのだ「ポップコーンにキャラメルかけたものがみんな好きだろう、SNSでみんな食ってるし」おれたちは今そういうものを食おうとしているのかもしれないのだ。

キャラメルポップコーンが好きなやつは何の問題もない、しかし少なくとも「けものフレンズ1期」のようなドリトスめいた真のサムシmグが好きというのおれやおまえのようなヤツらにとって、それはただの甘じょっぱい炭水化物に過ぎない。もし「けもフレ2」がキャラメルポップコーンだったとしたら、それは店頭からドリトスが消えたことを意味する・・・・絶望・・・・おれたちはたぶんもう二度とたつき味のドリトスを食うことはない。そこにあるのはシナモンのかかったキャラメルポップコーン・・・・大してうまくはないが、作業的に口に運ぶことができる消費に優れた工業品だ。


 おれたちは制作者の違いを痛感する

同じ曲で演奏者がおなじでも、指揮者が変わると音楽のいんしょうは全く違うものになる。クラシックに精通したおまえならかなり分かっていることだろう。アニメも同じだ。今回の「けものフレンズ」は言わば指揮者と演奏者が違う。しかし一番違うのはやはり指揮者、監督脚本だ。2話まで見たおまえはその違いを肌でビシビシとかんじたハズだ。例えばレッサーパンダちゃんのエピソードン。彼女はキュルルたちの為に道案内を勝って出たが目的地を知らなかった、結果キュルルたちを騙すことになってしまいカラカルにそのことを糾弾される。おまえも心をいためたシーンだ。このあとキュルルが彼女の親切心を理解しフォローした。1期を愛したおまえにはもうわかるだろう・・・・このレッサーパンダっちゃんの一連の行動はアクションとして解決されていない。向こう見ずな行動で引きまわしてしまい、カラカルも怒ってしまった、でも気持ちは伝わって許してもらえた。お分かりだろうか、なにも解決していない。もしこの時点でキュルルこの場を離れていた場合レッサーパンダちゃんとカラカルは信用を失ったまま次に進むことになり「けものフレンズ」のテーマが破綻する。

こういったスレ違いは現実の世界でよく起こる事であり、人間関係の難しさが恐らくは監督の意図しないところで現れている。これが何をいみするか?答えはかんたんだ、フレンズの常人化、人間味が強まったのだ。それはすなわち監督が成熟した社会人であることを意味する。それがたつき監督との決定的な違いであり「けものフレンズ」と「けものフレンズ2」の一番大きな違いだ。「けものフレンズ」はキャラクター個性を「環境や場面によって良くも悪くも作用する一つの人間性」という解釈で描いているのに対し「けものフレンズ2」は個性を「良いところと悪いところがある人物の二面性」という解釈で描いている。これは似ているようで180度真逆の事柄である。

前者はたとえば明るく物怖じしないサーバルちゃんの性格がセルリアンと対峙する状況下では楽観的なウカツとして作用してしまったというところだ。キャラクターは一貫しつつ多面的な表情を見せるという点でこの上なく自然で魅力的に機能する。たつき監督はこのやり方がうまかった、おそらくは技術ではなく天性のセンスだろう。それがけものフレンズのコンセプトと合致したのも1期成功の要因のひとつだ。

後者はたとえばいつも寝てばかりいる穏やかなジャイアントパンダちゃんが怒るとセルリアンに無双してコワイ。というようにはっきりとした長短の二面性があらかじめ区別されていることだ。これは物語を動かすうえでかなりわかりやすい。長所と短所をピンチとチャンスに直接振り分けることができ人格の小回りが利く。舞台装置として簡単に運用できてじんそくに安定した話が作れるのだ。2の監督はセオリーを手堅く使う、場馴れしたPROであることがわかる。

この二つのセンスの違いは「けものフレンズ」に如実に表れている。さっきもゆったフレンズの人間性だ。これはそのまま監督の人間性の違いでもありどうしようもない。たとえkadokawaでも制作委員会でもそこに踏み込むことはできない。監督本人でもだ。

たつき監督はツイッターアーや言動を見るとわかるように天才肌のいわゆるアーティスト気質だ。突出した能力がある反面、稚拙さや社会性の乏しさもある。そんな彼だからこそつくれた1期であり、それは真似しようとしてもおいそれと出来るものではない。完全に相性が良かったのだ。

2の監督はそうではない。彼はたつき監督よりもはるかに社会性を有した大人だ。常識的で実績もあるだろう。だが今回は、少なくとも2話の時点ではそれが悪い方向に作用している。凡庸だ。言ってしまえば彼じゃなくてもこの話は作れる。1期と比較して観られてしまう今作においてそれは一層顕著に表れるだろう。それどころかセンスが合わないヤツにとっては苦痛でしかないだろう。今回のやり方も間違いではない、むしろ正しいやり方だ。だからこそ、おれたちにとっては苦痛なのだ「かばんちゃんが居たらレッサーパンダちゃんの人格はは受容されていた。カラカルちゃんとも信頼しあってもっとユウジョウ・・・・」「たつうき監督ならフレンズのもっとけものらしい活躍があって多様性・・・・」1期を好きなら好きなほどそういった思考に陥り苦痛がましていく。ジレンマとなるのだ。


 真のフレンズはサバンナを生きる

おれたちはかばんちゃんと共にジャパリパークを出た。そこにあるのは真のフレンズだけが生きることを許される獣のせかい・・・・サバンナだ。草むらに潜むのは野獣ではなくライッフルを持った密猟者だ。niconicoのコメントやまとめスレッドの批評を盲目的にぜんぶ信じるような腰抜けは撃たれてしぬ。惰性的なアニメ巡回でナーバリを歩き回るマヌケも飢えてしぬ。だからといってすべてを捨て、たのしーを諦めるものは誰にも顧みられることのない孤独な死をむかえるだろう・・・・おまえのすべきことはただ一つ。

「ここすき」だ。おまえだけの「ここすき」を見つけ出せ。おれはけもフレ2のサーバルカラカルの「「たべないでー!」」がすきだ。これはだれがなんとゆおうとすきであり真のフレンズであることの証明だ。1期でも2でもアプリでもいい。おまえの心に「ここすき」がある限りおまえの輝きはきえない。それこそがコンテンツの魂であり娯楽の根幹なのだ。けもフレに限った話ではない。おまえが好きである限り、そいつには需要がある。おまえが忘れない限りそのシリーヅは永遠につづく。たとえ公式に終了し、絶版になったとしても。あるいはお前の描くssやファンアートとして、あるいは思い出話としてシリースは生き続ける。たとえそれが過酷なサバンナでも。真のフレンズは生き続けるのだ。

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