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アニメ「ぶっちぎり?!」は誰のどんな話だったのか?(最終話視聴後感想)

アニメ「ぶっちぎり?!」が最終話を迎え、最高すぎたので感想文を書く。最終話までのネタバレを含んでいるので、まだぶっちぎれてない方はぜひぶっちぎってほしい。

■各種配信サイト
https://bucchigiri.jp/onair/

■円盤情報
https://bucchigiri.jp/bddvd/

「ぶっちぎり?!」はどういう人に向いているアニメなのか?

ぶっちぎってない人は早くぶっちぎってほしい。平たく言えば全員に向いているアニメだが、以下に当てはまる人は特に自分事と思った方が良い。

  • アニメ遊戯王シリーズやアニメイナズマイレブンに順応できたし、好きだった人

  • アニメSK8に順応できたし、好きだった人

  • 12話という1クールで綺麗にまとまる話が見たい人

  • 複数の登場人物たちに確固たるキャラクター性があるものの、その根っこや背景がどこか皆リンクしている(重なっている)演出が好きな人

  • 「作中明言はされなかったけど、振り返ってみりゃあの描写って、つまりこういうことだったのかよ?!」と勝手に膝を打つのが好きな人

  • 「よく考えれば始まりと終わりは全て一つに収束するってことかよ?!」と勝手にウロボロス性を見出して頭を抱えるのが好きな人

  • 肉弾戦作画が好きな人

  • 逃げないことと向き合うことに取り組む話が好きな人

前段が長くなったが、ここからネタバレありの感想を記載する。

「ぶっちぎり?!」は誰の話だったのか?

荒仁の話と見せかけて真宝の話と思われた11話まで

「ぶっちぎり?!」は1~6話、7話を挟んで、8話~12話と、大きく前半と後半に流れを分けることができる。前半はいわゆる導入パートで、荒仁の転入〜不良の抗争の平定まで、後半からが真宝の問題に深く切り込んでいくパートになる。

7話あたりまでは「このアニメは荒仁の成長譚……なんだろうな」と思ったが、後半に入ってくると「なるほど、これは真宝の話なんだ!」と思うようになった。
厳密にいうと、「ぶっちぎり?!」とは”真宝を救う話”であり、救う側の荒仁を紹介するのが前半、救われる側の真宝を描くのが後半、そして話の主題は救われる側の真宝にある=だからこれは真宝の話、というわけだ。

自分自身に課題がない荒仁

これはどういうことかというと、荒仁には克服すべき課題がない、ということだ。以下、詳しく掘り下げる。

まず、荒仁を取り巻く状況や変化を、①自分自身 ②対人 の2つに切り分けてみる。

①は、荒仁自身の変化を指す。荒仁が置かれた環境や状況、荒仁が元来抱えてきた問題を踏まえ、荒仁は良くも悪くもどう変わるのか?という部分だ。これがプラスに働くなら成長だし、マイナスに働くなら退化で、アニメにおける退化は堕落=”闇堕ち”という形で描かれることが多い。
①の点でいくと、荒仁はびっくりするくらい不変である。成長も退化もしない。転校してきた荒仁は、一目惚れしたまほろ+取り憑いてきたマジン・千夜に半ばハメられる形で不良の世界に巻き込まれていくが、基本的に場当たり的な行動+ミーハーすぎるまほろへの恋愛衝動 に基づき、流されていく。
荒仁自身、ああなりたい、こうなりたいという具体的な夢も目標もない。目指すものもないから、課題もない。課題もないから、克服の必要もない。だからこそ千夜に訴える真の願いが三代欲求レベルの「童貞捨ててえ」で、1話から11話に至るまでブレてこなかった。
こんなに変化が望めない主人公は、同じ日常描写が永遠に続く平坦さを売りにしたタイプの作品なら成立すると思うのだが、「ぶっちぎり?!」はどう考えてもそっちのアニメではない。この時点で、11話までの荒仁は主人公として果たすべき機能が片手落ちの状態である。

真宝との関係も変えられない荒仁

では、②の対人はどうだろうか?これは荒仁自身の変化というより、荒仁と”誰か”の関係の変化を指す。
普通ならヒロイン・まほろとの絡みが該当するはずなのだが、荒仁とまほろの関係はびっくりするくらい荒仁の一方通行で(荒仁はまほろに恋はしているが、その実まほろの視点に立ってまほろのことを真に思いやり、考えたことは一度もないという意味で)、アイドルに入れ込んでいるのと状況的に変わらない。まほろ自体も一貫して実兄・摩利人に入れ込んでおり、荒仁に靡く余地がない。それはそうである、だって荒仁自身が①の観点で不変であるなら、最初から荒仁に興味がなかったまほろの感情だって変わりようがないのだから。

ということで、「ぶっちぎり?!」は荒仁の②対人の変化をヒロイン・まほろではなく、幼馴染の真宝で描くのである。
ここは唯一、荒仁が抱える根深い問題が絡んでくる。つまり、幼い時分に上級生にボコされる真宝を置き去りに逃げ出した事件のことだ。これは物語当初から描かれており荒仁にとっても苦い思い出で、特に”本気人”の話題を持ち出す真宝=罪悪感の権化=自分を責め苛むものというのが荒仁の認識で、結果被害者であるはずの真宝に冷たくあたっていた。
ここは明らかに荒仁の抱える課題としてピックアップされてきたが、これについても荒仁には克服の兆しが一切なかった。もっというと、克服する必要性も物語の中にはなかった。

というのも、冷静になって考えると、

  • そもそも上級生に刃向かったのは真宝で、荒仁は当初一緒に逃げようとしていた(真宝がそこを譲らなかった)

  • 当時真宝より体格が良かった荒仁であるが、上級生と比べれば五十歩百歩であり、荒仁があの状況で介入していても事態は好転したかわからない(しなかったと見て良い)

であるからして、あそこで荒仁が逃げたことは誰も責められない。百歩譲って、助けを求めるために大人を呼べなかった=見殺しにしたと言えるが、自分自身に置き換えてあの状況で何が言えるか?という話である。

そうなると、荒仁が抱えるこの事件、苦い過去ではあっても課題ではないのだ。ここを克服するというのは、子供の荒仁には荷が重すぎる。荒仁はあの当時から、逃亡の提案という意味でできることはやっていた。
あの経験を二度と繰り返さないためにせめてできることがあるとすれば、喧嘩から遠ざかるか、誰よりも強くなるかのどちらかだ。そういう意味では、荒仁はすでに前者を選んでいる。対策済みなのだ。

だから、②においても荒仁と真宝は変わりようがなかった。だって、克服する課題がないから。あるいは、二人の間に横たわるのは、克服できる課題ではないから。真宝との関係は荒仁側ではどうすることもできない問題だったわけだ。

荒仁の課題と化す真宝?

主人公であるはずの荒仁が不変を貫く一方で、急加速で変化を迎える男がいる。真宝だ。
真宝の抱える闇の要素はオープニングや1話など、出だしから散りばめられており、それが露見し始めるのが8話である。閑話休題的なストーリーと思われた7話すら、”アゲて堕とす”ための”アゲ”にすぎなかったのだから、こんな残酷なことってない。

真宝を取り巻く状況およびその変化はアニメ本編でもわかりやすく描かれている。もともと親がいない不安定な基盤、憧れの幼馴染のフェードアウト、支えであった兄との別離、和気藹々とは言い難い居候生活。そうしたバックグラウンドを持っていた真宝にとって、兄の復帰と荒仁との再会は眩しいほどの希望だったはずだ。兄の出所祝いのために作った餃子が悉く破裂し中身が溢れているのは、真宝が限界ギリギリの淵に立っており、なんだったら片方は足場から外れかかっているくらいの危うさであることの表れじゃないかと思っている。
暗がりの中のその光がいっぺんに消し去られたのが8話で、真宝が堕ちたことに疑問符をつける人間などいないし、真宝が自力でこの問題を解決すべきだと叫ぶ者もまあいないだろう。

つまり真宝は、8話を境に自己や他者との課題を解決する能力を有する”主体性を持ったキャラクター”ではなくなった。荒仁が課題を持たないorできる範囲で対処済み→今更解決しようがない のに比べ、真宝は課題まみれ→しかし積み上がったそれらは自己の解決能力で克服できるレベルをとうに超えている というわけである。それが”堕ちる”と言う形で「ぶっちぎり?!」では描写されたわけだ。

こうして8話以降の真宝は、主体性のあるキャラクターという立場からドロップアウトして、物語における”解決すべき課題”そのものになってしまったのである。
さて、物語が抱える課題は誰が解決すべきか?そりゃあ、主人公の荒仁では?となると、おお!荒仁が克服すべき課題がやっと見つかったということである。

これが、私が「ぶっちぎり?!」=真宝の話 と思った所以だ。もともとこの話は真宝の課題を荒仁に解決させるというものであり、従って話の本質は真宝の方にある、というわけだ。こうなってくると荒仁が課題ゼロなのも頷ける。自分で課題を抱えた状態で他人の課題を解決なんてできないのだから。

別にこういう話でも悪くないと思っていた。ある意味荒仁は課題から目を背けているに過ぎず、真に課題を持たない人間というわけではないはずだ。
そういう、課題と向き合うことを真宝を通して知る、ということで荒仁の成長を描く。もっと言うなら真宝を通してやっとこさ荒仁がスタートラインに立つ、という、そういう話なんだろうと思っていた。

そう、11話までは。

"本気=逃げない"の始まりと終わり

荒仁の全ては真宝から始まっていた

12話冒頭、オープニング省略という”本気”を思わせるクレジット付きで流れ出した回想シーン。11話まで積み上げてきた話を根底からひっくり返す衝撃の後出しジャンケンが炸裂した。
というのも、順序が逆だったのだ。真宝が荒仁に抱く憧れの強さから視聴者一同

  • 本気人を目指す荒仁に憧れ、真宝も修行を始めた

と認識していたことだろう。しかし、これは大いなる誤解だったのだ。

  • ”本気=逃げない”を求める真宝に憧れ、荒仁も修行を始めた

のが正解だったのだ。
こうなってくると、本当に全てがひっくり返る。つまりアラジンにとっての苦い過去=敵前逃亡事件は、単に”いじめられる真宝を見捨てた”という結果では片付けられない。上級生に比べ身体的に弱い荒仁にあの時何もできることはなかったよね、では済ませられない。
あの事件には、

  • 何事からも逃げないという、ありたい自分(憧れ)への裏切り

  • その憧れを教えてくれた存在(=真宝)への裏切り

の2つの課題が潜んでいたということだ。①自分自身 ②対人のそれぞれに属する、とんでもなく荒仁の根っこに関わる、肝の中の肝とも呼べる課題を、荒仁はずーっと抱えていたということなのだ。
ここにきて、課題を何も持たなかったはずの荒仁の状況が一変する。そして、ここにきて振り返れば荒仁はずっと課題を抱えていたと我々は思い出すことになる。

腹を下し、立ち向かうまほろに感化される荒仁の”憧れ”

荒仁の特徴の一つに、腹が緩いことが挙げられる。いざという時、つまり闘争か逃走の決断を迫られる時、大抵腹を下す。トイレダッシュに至らずとも、そういう決断を予感すると腹が痛くなり始めるのか、腹部を抑える描写も散見される。
11話に至るまでは、これは荒仁の情けなさの描き方の一つと思っていたが、先の逆転現象を受けて見え方は一気に変わる。

これは、ありたい姿(=逃げないこと)と自分が成せる選択(=逃げること)の狭間で荒仁が苦しんだ時、逃げていいことを合理化するために作動する荒仁の身体的反応なのではないかと思うのだ。
決して逃げたわけではなく、腹を下す以上トイレに向かわなければならない。だから結果的に逃げたとしても、本質的には逃げていない。その言い訳を荒仁の中で成立させるために荒仁の体が身につけたのが腹痛というわけなのだ。

だから、腹を括り切った11話終盤からの荒仁は一度も腹痛を起こさない。ありたい姿と自己の選択が、真宝を救うという心からの願いで完全に一致したからだ。荒仁の心は嘘をつかなくて良くなった、だから荒仁の体はそのための辻褄合わせで腹痛を起こす必要がなくなったのだ。

また、物語前半における荒仁のターニングポイントとして、6話の覚醒シーンがある。心土を前にしても臆さず、打たれても立ち向かうまほろを目にしたのがトリガーだ。ポイントは、まほろが打たれただけでは荒仁は覚醒しなかった、というところだ。
あの場面では、荒仁はまほろに逃亡を促していた。幼い頃と同じだ。上級生に絡まれる中、立ち向かおうとする真宝に逃げることを促していたあの頃だ。けれど、まほろは逃げないどころかこの期に及んで心土を扱き下ろすように罵倒する。力があるとかないとかそういう話ではない。屈する気がない。屈する必要性も感じない。”逃げる”の三文字が辞書にない。それがまほろなのだ。

荒仁は、まほろのその不撓ならぬ”不逃”の精神に感化されて覚醒した。恋する女の子のピンチがトリガーなのではない。逃げない本気の姿勢に憧れて、自分もそうなりたいと真に願って立ち上がった
そういう意味で、実は荒仁は最初から一貫していた。逃げないことへの憧れと、逃げたことへの後ろめたさと、逃げずにはいられない弱さの狭間で、その課題からずっと目を逸らして逃げてきた。

そして荒仁がやっと辿り着いた答えが、逃げないということなのだ。自分からも、真宝からも逃げないということなのだ。

真宝を”救う”責務はあるか?

私がずっと引っ掛かっていたのは、「果たして荒仁には真宝を救う責任があるか?というか、そもそも救えるのか?」という点だった。

というのも、「ぶっちぎり?!」のキャラクターたちは「そこまでっすか?」と言いたくなるほど自分本位な奴らが多い。妄想の域を超えないミーハーな一人相撲恋愛にいそしむ荒仁、実兄に対して荒仁とどっこいどっこいの状態なまほろ、他人の体で痴話喧嘩の延長線を企む千夜・一夜(もうだいたいこいつらが悪い)、荒仁の人間性を美化してそれが半ば自身の願望であると疑いもせず押し付け続ける真宝。

そういう人間まみれの中で、義理・恩・自己犠牲・献身のような動機で相手を救うというのは通用しないし弱い。ある意味、このカテゴリで真宝と向き合ってくれたのが年長の摩利人と道満なのだと思う(この二人は真宝に倒されてしまう)。
そして、荒仁と真宝の、年相応な関係性(先に記述した自分本位さもそういう幼さの表れと思う)において「義理・恩・自己犠牲・献身をもって相手を助ける」は薄っぺらいのではなかろうか。心からの願いが11話かけても「童貞捨ててえ」しか出てこなかった荒仁の引き出しに何が詰まっているんだという話である。
同じ理由で、友達だから、というアプローチも、荒仁と真宝には適用できない。そんなアプローチが荒仁にできるなら、最初から二人は拗れなかった。
それに、友達だから、という理由で真宝を救うアプローチを担ったのは座布だ。そしてそのアプローチは摩利人と道満同様、失敗に終わっているのだ。

こんな状態で、では荒仁は何を持って真宝を救えばいいのか?というわけだ。何をやっても、とってつけた感が出ないか?と危惧していた。だって、言ってみれば荒仁と真宝の関係って、真宝から荒仁への一方的な憧れの上に成り立ってるわけでしょ?という。荒仁が真宝を完全に拒絶しきれないのも、昔見捨てた罪悪感ゆえじゃないの?という。

が、先述の通り、この認識は12話冒頭の回想描写で覆される。先に憧れたのは荒仁の方だったのだ。決して逃げないという真宝の本気に感化されたのは荒仁の方だったのだ。
だから、荒仁は真宝を救えた。真宝を救うために救ったわけではないから。だから救えたのだ。

荒仁の本気は真宝の形をしていた

子供の荒仁が、同じく子供の真宝の精神を支える責任はないだろう。あの日真宝を捨てて逃げたことだって、同じ立場に置かれたら大抵の人間は同じことをするだろう。あの時のあの出来事は、致し方ない部分があった。誰だってそう思う。
ただその一方で、そういう言い訳を抱えながら、誰かを”本気”で救うことなんてできやしないのも真実なのだ。

荒仁は、真宝を救うために真宝を救いたかったわけではないのだと思う。
荒仁は、憧れた自分になりたかったのだ。あの日、迫り来る丸太から逃げなかった小さな少年に抱いた憧れを、成したかったのだ。何事からも逃げないという、本気人になりたかったのだ。
その憧れを実現すると決めて、成した。それを成すということが、自分からも真宝からも逃げないということと等しかった。そういうことだと思うのだ。

憧れた自分になるという点おいて、そこに一切の言い訳はできない。シンプルに、成るか成らないかの2択だ。言い訳をしている時点で、成らないのと同じだ。これまでの荒仁はそうだった。だからいつだって腹を下して逃げてきたのだ。けれど、荒仁は言い訳するのをやめた。成れるか成れないかではなく、成ると決めたから成る。勝てるか勝てないかじゃなく、逃げないと決めたから逃げないのだ。
その荒仁の決断が、真宝から逃げないということが、結果的に真宝にとっての救いだった。だから真宝は救われた。そこにはひたむきで純粋な”本気”しかなかったからだから荒仁は真宝を救えたのだ。

この話は、真宝の課題を荒仁に解決させるなんてものじゃなかった。
「ぶっちぎり?!」は、灯荒仁が”何事からも逃げない”という本気人に至るまでの物語だったのだ。灯荒仁は、正しく主人公だったのだ。

そして、荒仁の本気人への道のりの始まりにいるのは真宝で、終わりにいるのも真宝だった。真宝がいたから本気人を目指して、真宝を取り戻すために本気人になった
あるいは本気人になることと真宝を救うことは同じ形をしていた
これはそういう物語だったのではないかと、私は思うのである。

余談:真宝という名前

ということで、11話まで抱えていた「まとまるのか、ぶっちぎり?!」という不安は完全に杞憂となり、ここまで美しく逞しく綺麗にまとまる12話もないというアニメになった「ぶっちぎり?!」であった。
12話を見た上で最初から見返すと、「なるほど荒仁がこういう発言をした理由も、荒仁がこういう反応をした理由も、そういうことか?」と勘ぐりたくなる場面がちらほらでてきて何周してもひたすらに美味しい。

ところで、私が気になっているのが登場人物の名前だ。
「ぶっちぎり?!」が千夜一夜物語をモチーフにしているので、その辺が由来していると思う。荒仁、千夜、一夜はそのまんまだが他にも以下のキャラクターは

  • 神兄妹…精霊のジンから

  • 大英王太…ダビデ王から

  • 心土阿久太郎…シンド”バッド”→シンド+悪から(だから"NG"BOYS?)

この辺から名前を取っているのか?と勝手に思っている。
ただ、そうなってくると不思議なのが真宝で、準主役キャラでありながら由来がよくわからない。もし知っている人がいたら教えて欲しい。

ただ、最終話まで見て思うのは、素直に読んで字の如く、アラジンにとって「真の宝」だから「真宝」ってことで良いのだろうか?



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