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ボーはおそれているを観ました

彼はおそれていたのです。

というわけであらすじ。
初老の男性、ボー(ボウ)はカウンセリングを受けている。カウンセリングの途中、ボーのスマホに着信がくる。実家のママからだ。記念日が近いらしい。それまでのボーの人生を知るカウンセラーは難色をしめす。苦難が目に見えてる選択はあまり勧めたくない様子だった。それでも里帰りをしようとするボーにカウンセラーは一筆の処方箋を書いたのであった。「必ず水と一緒に飲んでくださいね。」帰り道に土産物屋でマリア像を買おうとするボー、なんだか行く先が騒がしい。ビルの屋上から野次馬に罵声を飛ばす人。それを煽りながら様子をスマホにおさめる野次馬たちだった。

物語の導入はこんな感じ。なんだか今回のあらすじはいつにもまして読みにくいかも。

その先は予告編と同じ流れでママが変死した知らせを受け取り悪夢のような里帰りが始まる。

以下ネタバレ込みの感想やら考察やら
まず、この映画は映し出される通りに受け止めたら突飛なホラーですが、このスクリーンに映し出される映像はすべてボーが受けた印象、感受した通りに抽象をおり混ぜて表現されている。と補助線を引くと終盤の描写の意味が変わってくるかと思います。
これは序盤からうっすらと表現されていて終盤で明言されますがボーは精神発達に難を抱えています。医師の指示に背かざるを得なくなるときパニックに陥る。忘れ物に気がついて荷物をその場に置いていきなり引き返す。自分の意志を示さずどうすべきかのみを請う。などの劇中の行動で示唆されています。
そして彼の精神性から、彼がおそれを抱くものは抽象的に巨大化されたものとして受け取られてしまいます。「おそれを抱くもの」とは直面している困難もですが彼の過去、トラウマも肥大化して彼に襲い掛かります。
で、素直に上記の補助線を引けばいいのですが、この映画を難解たらしめている要素に「母親の仕込み」が彼の妄想と彼の感受に入り混じっているのです。
事実と事実とは思いがたい事実(母親の仕込み)と事実(ボーが大袈裟に受け取ってる)と妄想が入り混じっているのです。

彼の精神性からくる特徴の一つに利己的(と評価せざるを得ない)があります。ボーは自己中心的なのです。責任を取らざるを得ない状況に立つとその場で誰かに「どうしたらいい」と問います。自己の意志を持ってその意志達成こそがすべきことにも関わらずそれを他人に委ねて責任を逃れます。彼は意志を露わにすることを避けます。本当は母に会いたくなかったのです。会いたくなかったから眠れなかっただけなのに隣がクレーマーになって安眠が妨げられたことになっていたのです。
また、ロジャー宅のチャンネル78、あれは単に母の監視を伝えたかったのでしょうがボーはその映像を早送りする妄想に囚われこの物語の結末までテレビ画面まで映されます。あれは、僕の考察ですが、うっすらとボーはこうなっていくと思っていた。「このあと結局ロジャーには送ってもらえないんだろうな。」「葬儀には間に合わないんだろうな。」「母に対面してもこんな感じなんだろうな」「母と別れたあとの人生はこんなんだろうな」ってのが映されたのであったのだと思います。その証拠に妄想だにできない事実の部分は映されなかったわけです。

最後にラストシーンの考察ですがあれは導入のビルの屋上に立つ人と野次馬の対比であり、ネットリンチをボーが受け取った通りに描写したものだと思います。
突如開かれる裁判のような糾弾。何かを代表してボーが悪辣であるかのように叫ぶ人。まるでエンターテイメントのようにその様子をみる観衆。そしてボーを庇おうとも誰の耳にも通らずまるで同罪かのように処されてしまうボーの弁護人。逃げ出すことはおろかその場で身動きすら取れないボー。まさしく現代のネットリンチそのものに思えました。

あ、あとトニの存在ですが母の仕込みでもなくボーにも想像できない思春期の女の子だったんだと思います。
ボーが渡されたのはピンクのペンキでしたが彼女が飲んだのは青のペンキでした。そしてネイサンの肖像に青のペンキでBOWの文字、わたしたちが見せられたあのシーンと実際に起きていたことが違ったとしたら、と考察します。

以上です。星4.1。

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