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【頭の整理&雑記】人生「咲ける場所」探し
「置かれた場所で咲きなさい」
渡辺和子さんの有名な著書だ。
この「咲きなさい」という言葉には、「現状に不平不満を抱くのではなく自分自身が変わることで生き抜きなさい」という意味がある。
しかし、私はこの言葉に疑問を持っている。
「生き抜く術を持っている者でなければ咲くことすらできないのではないか」
こう思ったのには理由がある。それは私が中学・高校時代に通っていた学校の教育方針だ。
その学校は自主性を重んじていた。
寮制のため生活も自分で作り上げ、校外学習なんかも自分達で企画する。
極め付けは学習科目さえ自分達の裁量に委ねられていたことだ。
また、一年を通して一つのテーマについて研究するというカリキュラムがあり、そのために私たちは平日の午後を議論に費やしていた。
ここまで見ると、とても先進的な取り組みをしている学校だと感じる。私も入学当初はその目新しさにただただ憧れていた。
しかし数年過ごしていると目新しさの罠に気付く。
それは「結局要領が良くて頭の良いやつしかこの学校で快適に過ごせないんじゃないか」ということだ。
その通りだった。
そして私はとてつもなく要領が悪かった。
全体で同じ物事を行う時、人の倍時間がかかる。それでもゆっくり考えるからこそ他人が見逃す着眼点を得ることもあり、それが強みになっていた。
ところが、自主性を重んじる校風の前ではその強みは邪魔でしかなかった。
謝恩会の企画委員長、体育祭や文化祭の会計係、美化委員長など、過去要領の良い先輩たちが少数で担ってきた仕事が全て自分に回ってきた。
それらを担当していた先輩たちに気に入られていたから。ただそれだけである。
要領が悪いということはそれだけ仕事を抱えればミスも多くなる上に、余裕がないから他人を頼ることもできない。学校の勉強にも身が入らない。
「無能」
卒業する頃には一部の先生からそんなレッテルを貼られた。
普通の学校に入っていれば平凡でも幸せだっただろうか。後悔しきりだ。
しかし、大学に入学すると評価は一変した。
受ける授業は病欠以外では休まず、テストも手を抜かなかった。その結果「成績優秀者」と所属したゼミの教授から評価を受けることができた。
部活動も真面目に行い、そこでできた友人と数年経った今でも交友関係が続いている。翻って中学高校の同級生や関わりのあった先輩後輩とは卒業してからほぼ会っていない。
それだけ私は中学高校での人付き合いを蔑ろにしていた。
私はやっと置かれた場所で咲くことができたと思う。
そうか。「置かれた場所で咲きなさい」というのは「ただ所属する環境で生き延びる術を模索する」ということではないのかもしれない。
「咲けるような場所にその身を置けるように、要領が悪くても努力を怠ってはいけない」。
渡辺和子さんはそんなことは考えていないかもしれないが、私は「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に一つの解を得た気がした。
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