1.蕾の詩


 テスト前。
 ルーズリーフには落書き。
 ノートにも落書き。退屈な日常を埋めるように白いページを塗り潰す。勉強しろよ。頭の中の人が言う。何のために。綾が言う。いいから勉強しろよ。
「だめだ……」
 綾は開いたノートの上に突っ伏した。
 はっとして起きあがる。
 時計を見る。午後三時三十六分。
 そうだ、おやつを食べよう。うんそうしよう。綾は立ち上がって部屋を飛び出した。
 戸棚の中にはおかきとお煎餅しかなかった。これじゃない。綾はミルクを温めてココアを作った。
 カップを持って階段を昇っていると直哉が上から降りて来た。
「俺の分は」
「ないよ」
 綾が部屋に戻ってココアを飲みながら小説を読んでいると直哉が入って来た。
「疲れた」
 綾が無視していると直哉は机の上におかきの二枚入った袋を置いた。いらないというのに。
「何?」
「休憩」
「なんで入ってくんのよ」
 直哉は綾の本棚からドロヘドロ十巻を取り出し、床に座って読み始めた。
「部屋に持ってっていいよ」
「いい。ちょっとだから」
 綾はため息をついて本を閉じると勉強を再開した。
 次の問いに答えよ。
 次の問い。
 なんだろう、問いの意味がわからない。まるで古代言語だ。そして綾は遺跡発掘隊の考古学者。石碑に書かれた神秘のヒエログリフとにらめっこして……
 ギブアップ。
 解法を見る。
 謎の公式が現れて鮮やかに問題を解決していた。
 なんでお前がそこで出てくるんだ。
 唐突過ぎるだろ、全然伏線とか無かったし。
 ああこれあれだね、いわゆる超展開ってやつだね。
 いや違う……
 自分の頭が悪いだけだ……
「もうやだ」
 綾はおかきの袋を破くと一枚取り出して食べた。
 よく効いた柚子こしょうの風味が舌の上から鼻の先に抜けていった。
「おいしいねこれ」
「トモコさんの京都土産」
「へえ」
 トモコさんは親戚のお姉さんだ。もういい年なのに独身でしょっちゅうあちこち旅行に行ったりしている。
「彼氏と別れたんだってさ」
「それで京都?」
「うん」
 さして興味無さそうに直哉は言った。その割に直哉は親戚の事情にやたらと詳しい。いつもどこで聞いてくるのやら。
「今度は結婚するって言ってたのにね」
「あの人飽きっぽいからな」
 直哉が知ったふうなことを言うので綾は少しいらっとした。でも確かにそれは当たってる。トモコさんは色んな事を始めてはすぐ放り出す。綾は新品同然のフルートを貰ったし、直哉はよくわからない機械を貰っていた。
 でも、綾はトモコさんを少しうらやましいと思う。いつも何処かに突っ走っている。それはぐだぐだと何もやらないよりずっと潔い。
「前向きなんだよ」
「止まったら死ぬみたいだ」
「何よそれ」
 直哉を見ると、立ち上がって本棚に漫画を返していた。
「俺にはわからん」
 トモコさんのことだか、漫画の内容だかに対するコメントを残して直哉は部屋から出ていった。
 綾はもう一枚おかきを取り出して少しかじると、再び小説を読み始めた。

 物語の中では世界が終わろうとしていた。バタバタと人が死んでいく暗いストーリーだ。そんな絶望的な世界の中で登場人物たちはみんな、生にしがみつき戦っているのだった。希望を胸に。
 本当に諦めないだろうか? こんな、明日が来るかどうかもわからない世界で。
 いや、だからなのか。
(私は本気で明日が来てほしいって望んだことあったっけ?)むしろ来てほしくない方ばかり思い当たる。
 あれが嫌、これがめんどくさい、etc……
(私はいつからこうだった?)
 なんだか突然、背筋が冷たくなった。
「生まれつきだろう」
 突然、誰かが言った。誰か知らないその人は矢継ぎ早に喋り続けた。
「この世には一種類の人間がいる」
「後ろ向きと、前向き」
「地獄行きと、天国行き」
「泳ぐものと、泳がないもの」
「一種類じゃないじゃん」
「そうだ」
「どういうこと?」
「自覚することだ」
「〈何処〉から来たのか」
「ただ〈其処〉へと戻るのみ」
 声は聞こえなくなった。
 そこはただの無音の部屋。
 だけど、いつから無音だったのだろうか。
 背後の気配に怯えながらそっと振り向くと、当然だが誰もいなかった。
 部屋の中には自分しかいない。
 棚の上にある、トモコさんに貰ったフルートのケースが視界に入った。
 中学の入学の時に貰って、三年間吹奏楽で使った。高校に入ってからはほとんど使っていない。ふと綾は立ち上がって棚の前まで行き、ケースを開けてフルートを手に取った。もう一年近く触っていなかった。
 理由は何だったか。綾は高校の吹奏楽部を一ヶ月で辞めた。未練はそんなになかった。もとより、思い入れも。ただ面倒事が嫌いで。
 そう、辞めた理由は人間関係だ。誰と誰が仲が悪いとか、とにかくめんどくさかった。
 フルートを構え、リッププレートに口を付ける。軽やかな音色が部屋に広がった。この音は好きだ。だけど駄目だった。世界は複雑だ。
(私は何処へ行くのだろう。フルートが好きだったり、付き合いが嫌だったり。というかやっぱりその程度の「好き」なわけで。だから私は多分、何処にも辿りつかないのかもしれない)
 この音色のように。

 そんなことをしていたら日曜日が終わってしまった。
 夕食の為に居間に降りると、直哉がごはんをよそっていた。綾は箸と小皿をテーブルまで持っていく。
「お姉ちゃん、笛吹いてた」
 食卓に着くとすぐに直哉が言った。
「吹いてたよ」フルートだけど。
「久々に聴いた」
「久々に吹いたからね」
 笛を吹いてる場合か、と言われるかと思って綾は母をちらっと見た。
「学校で吹けばいいのに」
 鯖の骨を取りながら母は言った。嫌味、ではなくこれはせっかくだからという意味だ。
「中学の演奏会はなかなかだった」
 直哉がまた知ったふうなことを言う。何が「なかなか」なのか。綾は無言で味噌汁をすすった。
「テストやべー」
 直哉は棒読みっぽく言った。綾は少し焦る。(むしろ、本当にやばいのは私の方なんだけど)
「明日からでしょ? もうだめなの?」
 母が心配そうに聞く。それにしても、もうだめなの? ってどうなんだ。と綾は思った。
「もうだめだ」
「お姉ちゃんに教えてもらいなさい」
「いや、私も明日からなんだけど」
「新しいカンニングの技を教えてくれ」
「そんなのありません」
 というか、教えたことないし。綾は食器を片づけるとさっと席を立ってポットのお湯を沸かした。
「あ、俺も」
 食器洗い当番の直哉がキッチンに来て言ったので、綾はカップをもう一つ並べてコーヒーを淹れた。
「ブラックで」
 中学生になってからというものの、直哉はコーヒーに何も入れず飲むようになった。
 こういうところは可愛いんだけど。綾は直哉の分も貰った気持ちで自分のカップに角砂糖を二個入れた。

 試験の結果は、残念だった。
 特に数学。清々しいくらいに壊滅している。
 これはもうだめだ。
 数学という惑星があったら民はもう他の星を目指して宇宙船で飛び立つレベルだな。
 さよなら、数学。
 綾はテスト用紙を小さく折り畳んで鞄に入れた。

 こうして綾の高校生活の初めの一年は終わった。
 再来月からはもう二年生だ。
 余りにもあっけなく時は過ぎる。クラスで喋らないわけじゃないけれど、親友と呼べる友だちも特にいない。果たしてこれが青春だろうか。
 それに関して、自分が余り残念だと感じていないことについて、綾は考えた。
 どちらにしても、春は来る。
 
 試験が終わって、少なくとも気持ちはさっぱりしていた。
 我ながら、お気楽な性格だ。
 冷たく澄み切った二月の晴天の下、通学路を歩く。まだ裸の桜並木。堅い桜の蕾はぎゅっと縮こまって寒さに耐えているように見える。
 蕾というのも丸くて可愛い。これが桜の花になるのか。小さな蕾が花びらを纏って、一生懸命お洒落をしているところを想像すると少し可笑しかった。
 華やかなのが桜じゃないんだ。
 ふと、綾は不思議に思って立ち止まった。見慣れた風景のはずなのに、今日はなんだか違って見える。
 今まで何気なく通り過ぎていた風景に新鮮な発見があることに綾は少し驚いた。
 うっかりしていると、一生気付かないことも沢山あるのだろうか。それこそ、本当に残念だ。
 今日という日が急に果てしなく思えてきて、綾の心はそわそわした。
 自分は今、目の前にあるものさえよく知らない、未知の世界にいる。
 まずはよく見ることだ。と綾は思った。
 そしてそれを詩にしよう。できれば綺麗なものに。
 綾は鞄から手帳とペンを取り出すと思いつくままに綴りはじめた。
 蕾と花。
 見えるものと、見えないもの。
 二つに違いはないのかもしれない。
 花は大地から芽吹いて、やがて散っていく。
 自分が何処に行くのかはやっぱりわからないけれど。(それは多分、行き着く処に行き着くだろう)
 今日見たものを、自分の言葉にしておくのもきっと悪くない。
 いつか全部消えてしまうだろう、その日のために。

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