3.ありふれた光

 イヤホンの中で圧縮された音声が叫んでいる。頭の中でそれは明自身と混ざり合っていく。
(私は世界の中に存在しない)
(私は何処にも存在しない)
(私は誰かが頭の中で考えている想像)
 世界だってきっと、そう。悪い夢の様なもの。夢なら早く覚めれば良い。
 曲が終わる。夢から覚めたようにぼうっとする。頭の中ではまだ音がぐるぐると回っている。
 明はイヤホンを外して膝の上に載せた。ぼんやりした現実が明の内圧をゆっくりと吸い上げていった。

「ナマメボシ」
 屋根の上で、星を見ている。
 隣に座った兄の有紀が「名前」を言う。
 それは星。それはずっと真上にいる。月や、夜の星々の光は冷たくて、柔らかい。光は星から星へと届くけれど、宇宙のほとんど全部は闇だ。闇は見えなくて、光のあるところだけが、見える。だったらやっぱりあの星だってこっちを見ているのかもしれない。
(どうして私たちはこんなに不自由で、何もわからずに迷っているんだろう)
 星は高いところからじっと見下ろしている。こんな姿を、どうか見ないでほしい。
(私が良い子だったらよかったのに)煙がぬるい風に乗って明の顔にかかる。
「煙草は身体によくないよ」有紀の顔を横目で睨んで明は言った。こんな兄も当然悪い子だ。
「良いんだよ」有紀がふーっと息を吐いて言った。「健康過ぎる方が悪い」
「意味分かんない」
「意味とかさ」有紀は煙草を屋根に押し付けた。「考えすぎだろ。白とか、黒とかさ」
「悪いものは悪い」明がそう言うと、有紀は笑った。
 月明かりの下で、有紀の顔は血を失ったように青白かった。

 真っ暗な部屋で明は一人、膝を抱えている。
 少し死にたくなって、ごめんなさい、と小さく呟いた。
 彼の顔が頭をかすめて、明は目を閉じた。
 それでも彼の幻影は消えない。
 明の頭の中に焼き付いた記憶が何度も再生を繰り返す。

 その時、明は学校にいた。母に言われるままに受験した私立中学には小学校からの知り合いもいなくて、人見知りの明は、入学以来の一学期を一人で過ごしていた。先生たちは教科書のページを進める機械みたいで、学校は苦痛しかなかった。
 その日の授業が終わり、ぼんやりしていると教室には誰もいなくなっていた。教室を出ると廊下の向こうからかすかにピアノの音が聴こえてきた。鍵盤をそっと撫でて奏でられたような控えめな音は連続していたけど、無調で不協和なものだった。不愉快になった明が帰ろうとすると、それは突然微妙で繊細なメロディに変わった。互いに近付いては離れ、迷いながら少しずつ並び方を変えて寄り添い合うようなその音に誘われていくと、音楽室に着いた。
 ドアをそっと開けると彼がいた。一度も話したことはなかったけど見覚えのある顔だった。彼はクラスメイトだった。彼はピアノを弾いている、というより何か未知の生きものに触れているように見えた。そして明が見ているのに気付くと、彼は手を止めて顔を上げた。明は急いでその場を離れた。
 翌日、明はクラスで彼を見た。彼は明のことに気付いていないようだった。彼は誰とも話さなかった。数日が過ぎた。

 その時、明は自分の席に座っていた。教室の窓から夕日が差し込んでいる。明は授業が終わると、人気がなくなるまでそうしてぼんやりしていた。ふと気が付くと彼が明の近くに立っていた。放課後の教室に明と、彼だけがいる。
 明は習慣的に手首を傷付けていた。
 明の傷付いた手首に彼の手が触れている。彼は明に、どうして? と言った。明は黙ったまま彼を睨んだ。彼は、痛そうだね、と言った。彼の顔はこわばり、少し笑っているように見えた。
 彼は明の手首の線をそっと指でなぞった。彼は明の目を見つめていた。明は彼の不安そうな表情をぼんやりと眺めた。
 二人は少し話すようになった。明と同じように、彼にも友達がいなかった。二人とも小さな頃からピアノを習っていて、学校と親が嫌いだった。二人は一つの計画を立てた。
 その時、明は電車に乗っていた。隣には彼が座っていて、二人は無言で窓の外を流れる景色を眺めている。夕日に染まった家々はどれも、昼間の緊張から解放されて穏やかな表情をしていた。彼の左手が明の右手に触れて、明はそれをそっと握り返す。彼の体温と少しの湿度を感じて明は不思議だった。明は電車が永遠に、何処までも走り続けるような気がしていた。
 夕日が沈む頃、電車は止まった。人気のない終点の駅で明と彼は降りた。夕闇の中で彼は幼い迷子のような顔をしていた。彼は明の手を握ったまま、何処か遠くに行こう、と言った。明は頷いた。二人は駅から出て、知らない田舎町を歩き出した。
 ぽつぽつ立ち並んだ民家からは夕御飯の匂いがした。それらが一軒も見当たらなくなり、街灯もない田園風景を過ぎると、緩い傾斜のある山道に差し掛かった。
 歩道のない道路をガードレールに沿って二人は歩いた。ヘッドライトで彼と明の姿を照らしながら車が何台か通り過ぎていった。歩きながら明は、轢かれそうだね、と言った。彼は、明の手をぎゅっと握った。しばらくお互い無言が続いた。彼は、僕、悪い人間だ、と呟いた。明は、そんなことないよ、と言った。
 二人は歩き続け、道路の脇から森に続く小道に入っていった。
 樹々がまばらに乱立する小道を抜けると森の中にぽっかりと空いた広場に出た。明と彼は岩の上に並んで腰掛けた。夜の森は空気が張り詰めていて、あちこちで樹々がさわさわと囁き合っていた。
 サーチライトのような丸い大きな月が二人を照らす。冷たいけどやわらかい光が明を包み込んだ。明は眠るときのようになんだかぼうっとして、ため息をついた。
 急に彼が何か言ったので、明ははっと我に返った。
 彼は明を見つめていた。なにかに怯えるような目をしていた。
 彼はポケットからナイフを取り出して刃を開いた。彼の手はぎゅっとナイフを握りしめていた。月光を受けて煌めくナイフの刃に明は見とれていた。死のう、と彼は言った。うん、と明は言った。明はその時微笑んだ気がする。彼はナイフを明の首筋に近付けていった。彼のナイフを持った手が震え、刃の背の冷やりとした感触が明の肌に伝わった。明は彼を見守った。明の心臓は高鳴り、どこにも溢れだすことのない血液が全身を駆け巡った。
 突然、彼はナイフを手放した。彼の手から離れたナイフがぽとりと音を立てた。駄目だ、彼は言った。どうして? と明は言った。想像の中で、明は既に、鮮血を溢れさせて死んでいた。
 ごめん、と彼は言った。生きている彼の手が、生きている明の身体に触れた。明はもう何も感じなかった。
 翌朝早く、明は警察に見つかり家に連れ戻された。母は明を見て子どものように泣きじゃくっていた。
 それからすぐに夏休みになり、休みが明けると彼はいなくなっていた。
 明は学校へ行くのをやめて、部屋の中に引きこもるようになった。
 
(ここには私しかいない)
 だけど彼は明の記憶の中に再生する。
 真っ暗な部屋で膝を抱えたまま明は眠った。

 いつからこの雨は降っているのだろう。
 晴れたら外に出ようと思っているのに、今日も雨が降っている。明は部屋の中から、窓の外を眺めていた。
 窓の外はずっと雨。灰色の世界に銀色の矢が絶え間なく降り注ぐ。世界の終わりみたいだ、と明は思った。世界は汚れすぎたから。きっとこうやって終わるんだろう。明はそっと目を閉じた。
 人も、人の作った文明も、全て洗い流されて。そして最後にはまっさらの星だけが残る。
 星には、水と風の奏でる伴奏と、天使の歌声が響きわたる。
「世界が綺麗になりますように」目を閉じたまま明は祈った。

 目が覚めるとカーテンの隙間から光が差し込んでいた。雨は止んだんだ、と思ってそれが夢の出来事だと気付く。
 雨は止むけれど、いずれまた降る。心だって同じだ。晴れたら外に行くんだっけ? と夢の断片を引きずり出しながら、カーテンを開けると朝日が目に眩しかった。
(まだ私はこの部屋から出られそうにないけれど)
 窓の外に広がっている暖かくて少し厳しい、ありふれた光に満ちた新しい世界を、明は祝福した。

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