空に色を.3

「なんかさぁ。うちの部の子がおうみくんに興味あるっていうんだよね。隣のクラスの子なんだけどさ。放課後、ちょっと寄ってってくんない?」
 嶋田さんにそう言われたのは四月も終わりにさしかかるころのことだった。まだ部に所属していない翠は、学校の決まりということで適当な部に入るよう担任に言われていたがずるずると日々が過ぎ、嶋田さんの方はもうしっかり部活動にいそしんでいるのだった。
 言われるままについていくと、はたしてそこは美術室だった。ドアの前でたちどまる翠。
「なにしてんの?」嶋田さんが振り返り、いぶかしみながら翠の手をとる。「おいでよ、ほら」
 ぐっと手を引かれ、つんのめりそうになりながら足を踏み入れる。バランスをとり、顔を上げたところにその光景があった。
 斜めに背を向けた彼女は、一心不乱に絵筆を動かしている。
 純粋な精神の活動するさまというのは、それほど美しいのだと翠は知らなかった。ただ、その運動する肉体だけに見とれていた翠が、ふとした拍子に視線を移した先。まだ大半が白いキャンバスに描かれつつあるもの。
「天使……」
 翠はそのときはじめて、人のつくるものに神を見た。

「あっ! 青海くん、きてくれたんだ」一人の女子が駆け寄ってくる。小柄で痩せていておだんご髪なので、ちんまりしたつくしのような人だった。なんだか見覚えがあるなと思っていると、がっと両手をつかまれる。「わあ、きてくれてうれしい! 私……貴方のファンなの! 貴方の描く、幸せそうな家族の絵がすっごく大好きで、小さいころに展覧会で観たんだけど、それが同い年の男の子の描いた絵でびっくりして、それで私も」「ちょいストップ!」
 嶋田さんが彼女の肩に手を置く。
 はっ! とした顔で彼女は翠から離れると、口元に手を当てて恥ずかしそうに笑った。翠は思いだす。このあいだ教室で美術部に勧誘してきた人だった。
 翠としてはあまり良い出会いではなかったうえにこの再会だったため、すでに少し苦手な気持ちが芽生えはじめる。が、彼女はものともせず、はきはきした声でよろしくね! と言った。
「よろしく……」そして名前を聞いていなかったように思うのだが、もしかしたら自分が聞き逃していたのかもしれず、つくしの子に呼びかける方法がもうわからない。
 翠は小さく息を吐くと、ぎこちないながら微笑を返した。
 嶋田さんにうながされながらようやく教室の奥まで進んだところで、翠はその存在を再発見する。
 今の騒ぎでも集中をみださぬまま筆を動かしつづけていた彼女が、ふと手を止めて窓に顔を向ける。三階のその向こうは遠景に林の広がる。あとは空だった。
 青から夕の赤にかわりゆく、その上方。
 彼女はあの日の草むらでそうしていたように、ただ独り、沈黙していた。
 その姿を見た翠が小さな違和感をいだいたのは、あのときと違う一点。草むらのときは、そばに立った翠に彼女はすぐ気づくことができた。彼女の意識はすぐそこにあるように思われた。だけど今は、窓の外、空を見やる彼女は夕景のその向こう。もっと遠く、暗いところへと向かっているようで、「椎名さん」思わず翠は彼女に呼びかけていた。
 声の出し方を忘れてしまっていたのか思いがけず、遠くの人を呼ぶようなかたちで言ってしまう。それで、彼女ははっとして、絵筆をとり落とす。
 カラン、とちいさく跳ねる音がして、彼女は振り返った。翠と目が合う。大きくひらいた瞳からしずくがこぼれおちるのを翠は見る。
「……」
 かすかに口がうごいて、うわごとのように呟く。
「え?」翠が聞き返そうとすると椎名さんはぶるっとふるえて、それから、くしゅんとくしゃみをした。涙が玉になって、翠のほおに一滴飛びはねた。
「ほら、ちゅんして」鼻水のたれた椎名さんにさっとティッシュをさしだす嶋田さん。保護者の手際の良さだった。
「ふーむ。これは、印象派ですね」キャンバスをにらみながらあごに手をあててそれっぽいことを言うつくしの子。つられてそちらに目をやって翠はぎょっとする。
 たしかに、教室に入ってきたとき、窓際の彼女の描いていた絵画は何か素晴らしいものに翠には見えたのだ。だが今、そこにある未完成の絵の具の塗りたくられた画面は、ただの子どものいたずら描きにしか思えないのだった。
 その不思議な印象の変化について考えるのはまだしばらく先のことになるのだが、ともかく最後に上書きされた大きなインパクトによって、何か翠の頭の中が切り替わったのだった。まったく、翠自身にも知らないうちにそれは起こったため、あとからふり返っても「理由」というものが言語化できないこととなっている。
 衝動、不可解、疑問。
 この日から、翠は再び空白のキャンバスと向き合う。

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