空に色を.4

 夜。居間のちゃぶ台にスケッチブックをひろげていると、めずらしく早く仕事をおえたらしいおばさんが上機嫌で帰ってくる。「おーい! みーちゃん肉食いにいこ肉! それか寿司!」
 声の方だけ先に届いたが黙って白紙に向かいあっていると、追いついてきた身体の方がぐいっと覗きこんでくる。「何してんの?」
「あ、うん。おかえり」「エスパーの訓練か何か? にらみつけてると裏側に描いてるものが見えるとか。ってかそんなんいいからさ、はよ準備して」
 せかされて車に乗りこむ。勢いよく発進したおばさんの車はノンストップで回転寿司屋の駐車場にすべりこむ。「いくぜ!」ない袖を腕まくりしながら車から降りるおばさん。平日の夜でも案外停まっている車の列を横目に店に入る。
 にぎわう店内。食事、特に外食を娯楽のように捉える人は大勢いる。おばさんもその一人だった。翠は定期的にこうして連れてこられるが、正直あまり有意義に思えなくて「たかが食事をするためにわざわざ車で移動したり、時間をかける必要があるのだろうか」と内心冷めながら席につく。
 おばさんはもうタッチパネルにポンポンポンと注文を打ちこみ鼻歌を歌っている。翠はレーンを流れる皿の列を眺める。こういった機械的な運動は見ていて少し面白い。「みーちゃんイカたべる? イカ」「うん」
 そして注文をおえたおばさんがふうとため息をつきながらそういえば、という顔でたずねてくる。
「さっきのあれ、何やってたの?」「あれって……」「ほら、なんか白い紙広げてうんうんうなってたじゃない」「ああ、うん。絵を描こうかなって」「ほう」「でも、何を描くのかはまだ決まってないんだけど」
 おばさんが目をほそめる。そしてバッグから手帳とペンを取り出す。
「なんかこう、とりあえずーって感じで私もよくやってるけどね。ほら、他にやることないしっていうか」さらさらとペンを持った手が動き、手帳に線が生まれていく。
「あーだめだ……寿司のことしか考えられん」ねこの耳が生えた女の子が勢いよく寿司を握っているイラストが誕生していた。そして寿司が来る。
「うおおー」肉食獣のような雄叫びをあげるおばさん。翠の前にも皿が並べられる。
「みーちゃんおなかすいてるでしょ。ほらどんどんたべて」言い終わるやいなやぱくぱくと口にはこぶおばさん。
 翠は、あっと思ってスマホを取りだす。そしてイカの写真を嶋田さんにLINEで送る。
 秒で返ってくる。寿司の写真。白身の魚……これはたぶん鯛。勝ち誇ったイラストのスタンプが添えられてくる。よっぽど寿司に関心が深いらしい。まさか対抗する写真をさっと送り返すことができるとは……。謎の尊敬の念を覚えながら箸をとる翠だった。そしてイカを食べおわると満足してしまい、粉のお茶にお湯を入れて飲む。正面の席でとてもよい笑顔を見せつつ寿司をほおばるおばさん。あまり食に興味がない翠だが人が美味しそうに食べているところを眺めるのは嫌いではない。
「みーちゃんもっと食べなきゃだめだよ。ほらえび」「うん」置かれたえびを口にはこぶ。甲殻類のぎゅっと詰まった肉を噛みしめる。
「わっ!!」
 耳元に衝撃。
 がたっと席から滑り落ちそうになる。えびのしっぽがのどにつまる。
「あわわ、ごめん!」引きずり上げられてお茶を飲みながら見ると嶋田さんだった。制服じゃないとなんだか女の子にみえる。
「アグレッシブやなあ」おばさんが感心したふうに言う。
「あっ、おうみくんの……お姉さん」一瞬間があったが解答を導きだす嶋田さん。おばさんはうなずく。「翠の姉です」
 姉にしたら年齢が離れすぎているだろうと思ったがそれは飲み込んでおいた。
 嶋田さんが首だけ翠に向けて不敵な笑みを浮かべる。
「まさかここで会うとはね。私にお寿司で勝負をいどむとは十年早いよおうみくん」
「いどんでない」
「でもなかなかのイカだったよ。私も一皿いただきました」
「そう……」
「てかお姉さん絵うま!」
 テーブルの脇の手帳に関心のうつっている嶋田さん。なんだか、学校だと椎名さんの子守役だからかしっかりしているところがあるように見えるけれど、普段は割とこどもっぽいのかもしれないなと翠は思った。
 褒められたおばさんは嬉しかったのか、手帳のページを切り離すと「寿司をにぎっている猫耳の絵」を嶋田さんにそっと差しだす。「どうぞ」
「え、いいんですか? ありがとうございます! じゃあまたね、おうみくん」そのまま親に呼ばれ帰っていく嶋田さん。一気に静かになる。
 やれやれと湯呑みを取りお茶を一口飲む。
「またね。……そう告げた彼女の表情がふとよみがえり、おだやかな気持ちになる。また、明日。いつもと同じだったはずの明日が少しだけ、待ち遠しくなった」
 おばさんは唐突に気持ちわるいことを言う。

 それから一週間、家と学校を往復させ、毎日ひきずるように連れまわしたあげく白紙のスケッチブックだった。四隅は折れてしまっていて表面も少し薄汚れている。
 一体何をしているのだろう。いらいらがつのる。
 土曜日。紙をはさんだ画板を肩から提げて自転車で走る。住宅街を抜け、車道をはなれ、空間のひらけた方へと無心でペダルを漕いでいると河川敷に出た。五月のさわやかな風がシャツをとおして肌にふれる。自転車を降り、ふうっとため息をつく。週末のお昼前。堤防に立った翠のわきをジョギングの人が走り抜けていく。晴天、草っ原、穏やかな水の流れ。世はこともなし。
 ふと、いつか見た夢を思いだす。
 真っ白なくう。音もなく存在の圧しつぶされていく夢。それはさみしかったけど、いっそすがすがしい心地よさがあって……。
 おそろしいことだと、翠は思った。まったくの虚無だ。色のない世界というものは。
 かわききった心。「空」は心の砂漠だったのだ。
 つい一月ほどのあいだにあった出来事が頭の中にめぐる。小さなばらばらの欠片たちはあちら、こちらに散らばってかすかにまたたいている。点と点が呼応するように存在を主張しあい、そのぶんだけ世界に色がついていくように感じられた。深く息を吸いこむ。
 時間はある。焦ることはないのだ。一歩、二歩。川面に向かって坂になった草の上に踏みだして、腰をおろす。画板をひざの上に載せて、再びはじめるのだった。
 感じること。心はみえない。息をすること。みえないものたちが翠にふれ、体内を循環し、またとおり過ぎていく。
「翠。あなたにはどう見える? この世界はどんな色をしているの?」
 問いかける声の記憶がよみがえる。母の声。
 翠は眠るときのように意識を重力にゆだねていた。
 どど……ころころ……。とおくから音が聴こえてくる。どどど……ころころころ……。
「——!」ひとのこえ。いつの間にか眠っていたようで、つむっていたまぶたをひらく。光。色彩が洪水のように視覚をとおして翠の中に流れこんでくる。
 運動体。右からすーっと横切ってくるものが目に入り意識を向けたところで、それはがたがたとゆれて、がしゃーんと転がった。
「びえーん!!」サイレンのような泣き声。完全に目が覚める。
 と、さらに右から運動してくるものがあって、それは洗屋だった。正面まで来て立ち止まった洗屋の隣でひざをついた小さな子は依然泣きつづけている。なんだかいてもたってもいられなくなり駆けよる翠だった。
 洗屋にひっぱりあげられ立ちあがった女の子のひざから少し血が流れている。翠はポケットからハンカチをとり出して、血を軽く拭った。女の子はまだぐすぐす泣いていたが幸いけがはそれほどでもないようで、翠はほっとして洗屋を見る。不機嫌そうな表情の洗屋だったが、突如登場した翠に対してはおちついた口調で「青海。悪いな」と声をかけてくる。翠も「うん」とぽつりと返して、それから、女の子が不思議そうな表情で見あげているのと目が合って少し気まずい。首を突っ込んだものの今になって余計なことをした気になる。翠はあとずさりながら「ぼくそこで、絵を描いてたんだ。だから……」距離をとっていく。女の子をおぶって歩いていく洗屋の姿。遠ざかる。やがてそれが見えなくなると、再び空白に向かう。

 鉛筆で、ためらいがちに線を引いて、印象を。

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