よくできたFREE.5

 家に着くと、妹は急いでシャワーを浴びに浴室に向かった。私は何ともなしに自室に戻り、ノートパソコンを開いた。工場長の言葉を脳裏で反芻する。
 社員の人たちが納期に追われて残業し、時に徹夜する姿は見てきた。繁忙期、普通に出勤すると彼らは朝から魂の抜けたような表情でシャッター裏に集まって煙草を吹かしていた。
 新着メールの通知アイコンが点灯しているので確認すると、ゲーム誌の編集長からだった。新しい雑誌を立ち上げたので、再びコラムをぜひ書いてくれないかという誘いだった。文面が切実だったので少し笑ってしまった。創刊からこれでは先が思いやられる。私は懐かしさを感じ、部屋の隅の段ボールから以前出版した雑誌を取り出して眺めた。ゲームに対する愛着がしみじみと沸き起こってきた。私は実家に帰って以来初めて、ゲーム機をモニターに接続した。さんざんやり込んだレーシングゲームのディスクを本体に挿入する。電源を入れると見慣れたタイトル画面が表示された。私は不義理を詫びるような、厳粛な気持ちでコントローラーを握りしめ、スタートボタンを押した。リアルにモデリングされた愛車が画面の中で、現実と変わらないエンジン音をあげる。私はコントローラのアクセルボタンを押さえる指にじわじわと力を込めた。
 意識が徐々に加速していき、視界が狭まっていく。コーナーが近づく中、精神が冷却していくのを感じる。そして、コーナーを曲がり終えたとき私の意識は時間も、温度も、何も感じない領域にいる。
 やがて我に返り、感じるのは虚しさだ。私の意識は結局この不自由な現実から逃れることは出来ない。ふと画面に映し出されたランキング表示を見ると、数ヶ月ぶりのプレイでコースレコードを更新していた。
 私はノートパソコンの文書ファイルを開くと、キーボードを叩き始めた。ハイスコアを取ったとき、己のレベルが上がっていることを実感する。ゲームキャラクターのパラメータは数字で表現出来るが、現実のプレイヤーのパラメータは常に揺らいでいる。訓練することで技術は向上していくが、現在どの段階にいるのかははっきりとわからない。だからこそ人は競い合う。そうして相対的に自らの立ち位置を確認するのだ。だがその先にあるものは何か? プレイヤーは延々と競争を続け、スコアボードに名を刻んで……そして消えていく。
 現実のスコアボードは空白だ。あるいは闘争心があれば違ったのかもしれないが。
 いや、そういうことではない。そもそもゲームはハイスコアが全てではない。コースを逆走してみる。笑える死に方をする。そうやって楽しむ遊び方もなくはない。ならば既存のルールを破り、そこに新たなルールを付与してもいい。現実のルールも常に塗り替えられ続けている。
 書きかけのテキストを保存する。タイトルは「ゲームは一日X時間」しばらく触れていなかったゲームで急にハイスコアが出たり、現実のレベルがいつの間にか変動していることについて書いた。私は虚構と現実の区別がついていないのだろうか。何故ゲームと比較して現実の不自由さを感じる必要がある。ゲームはツールに過ぎない。
 私はノートパソコンを閉じ、ゲーム機の電源を切った。暗い部屋の中で、液晶モニターの電源ランプだけがぼんやりと点灯している。
「暗っ」声がしたので振り向くと、妹が廊下に立っていた。
「それゲーム?」妹は部屋に入ってくると興味津々な様子でゲーム機を見た。濡れた髪からシャンプーの甘い香りが部屋中に広がっていく。
「ああ、うん」なにか間の抜けた返事をしてしまう。
「どんなん?」
 私は立ち上がって部屋の照明を点けると段ボールを開けてゲームソフトを幾つか取り出した。妹はフローリングの床の上に並べられたソフトをしげしげと眺めた。
「いっぱいあるね」
 これでも所有しているうちのほんの一部だと言おうかと思ったがやめた。
「なんかやって」
 妹に言われるまま、私はコントローラのボタンを押してゲーム機の電源を入れた。ディスクが入りっぱなしだったレーシングゲームが自動的に起動する。決定ボタンを何度か押してレースを開始するといつものようにアクセルボタンにじわじわと力を込める。
「車のやつ?」私は曖昧に頷いた。エンジン音などもリアルに再現されている。
「リアルやなぁ」妹が特に感動のないフラットな調子で言った。動かすとわかるが、プレイしやすいように挙動には若干の嘘が含まれている。私はアクセルを緩めず目前に広がるカーブに突っ込んだ。車は空力の限界を超えて次の直線に到達する。そのまま加速。意識が徐々に車と一体化していく。視界の先で直線が曲がり、再びカーブに変わる。侵入前ぎりぎりまで加速し続ける。
「他何かないん?」妹の声がした。私ははっと我に返った。私の指がアクセルボタンから離れ、車は惰性で少し走った後、バリアに突っ込んだ。妹にとってこのゲームは現実と変わらず、つまり退屈なのだ。そういったことを考えていると妹が勝手にソフトのパッケージを手に取っていた。
「これは?」国内未発売の輸入版だった。面白い作品だ。脱獄不可能と言われる絶海の刑務所で人間に寄生する未知の生命体が繁殖し、死刑囚の主人公を操作してそこから脱出するアクションアドベンチャーゲームだ。主人公が何故死刑判決を受ける程の罪を犯したのか、登場人物たちの「罪」をテーマにして展開するストーリー展開もさることながら、純粋にアクションゲームとしてもよく出来ている。寄生された人間は四肢を分断しなければ死なないという設定のため、プレイヤーは主人公の扱うあらゆる凶器を駆使して襲い来る敵をバラバラにしなければならない。これが癖になるのだ。プレイヤーは死刑囚の主人公とシンクロして、罪悪感と破壊衝動を二重で感じることになる。
「おもろそうやん!」
「でも、グロいですよ」
「うん」妹はにこにこしながらパッケージを開け、中のディスクを手渡してきた。
 いいのだろうか。私は疑問に思いながらゲーム機に入っていたディスクを取り出し、妹から受け取ったディスクをゲーム機に挿入した。
 暗く冷たい夜の海が画面の中に現れた。決定ボタンを押してゲームを開始する。
「やってみる?」コントローラを妹に差し出す。妹は頷いてそれを受け取った。画面の中では二人の男が冗談を言って笑いあっている。彼らはこのゲームの舞台となる刑務所の看守であり、数分後に死ぬことになるのだが、そんなこと知る由もなく週末の休暇の予定を話しはじめる。二人の会話は続けられ、映像にスタッフのクレジットが乗っかる。導入部から映画のような演出を取り入れる手法も最近のゲームでは珍しくなくなった。映像を見ているとそのまま自分で操作できる状態に移行するため、プレイヤーの没入感を高めるのに役立っている。
 突然画面が切り替わった。こちらに背中を見せたまま囚人服の主人公が突っ立っている。頭上に天使の輪のようなインジケータが浮いていて、その一部が強く発光して進むべき方向を指し示している。
 妹がボタンを押したことで、導入部の映像が飛ばされていた。看守たちはいつの間にか全滅している。刑務所内にけたたましいアラートが鳴り響いている。
「なにこれ」
「デモをスキップしたから。左スティックで前進して」
 妹は戸惑いながらコントローラを操り、主人公がそれに合わせてふらふらと動く。
「マーカーが出てる方向に行くと、進む」
「うん?」妹が首をかしげる。主人公は壁に向かったまま立ち尽くしている。「お兄ちゃんやって」
 妹にコントローラを渡され、私は操作を思い出す。ダッシュボタンを押しながらスティックを上方に倒す。主人公が走り、独房の外に出た。銃型の武器を拾い、既に二周クリアして暗記しているマップを数フロア分走り抜けると通路の奥に一匹目のクリーチャー、つまり敵が現れる。囚人服を着ているが、その顔面は大小様々な形の穴が無数に空いて歪な蜂の巣のようで、異常に長く伸びて肘から先が鎌のようになった両腕を振り上げている。武器を構えるボタンを押し、素早くスティックを動かして目標に照準を合わせると同時に射撃ボタンを押す。主人公の手に持った武器からレーザーが発射され、敵の足を吹き飛ばす。足を失って倒れ、なお這いずるそれの頭部に向けて再度武器を発射する。首が吹き飛んだ敵はようやく動きを止めた。
「こんな感じやけど」私は手を止め、斜め後ろに座っている妹に聞いてみた。「やる?」
「ええわ」妹は少し笑って言った。
 私はゲームを終了しようと、続いて現れた二匹目の敵に向かって主人公を走らせた。それは鋸のような腕を振り上げ主人公に襲いかかる。両者は揉み合い、主人公がうめき声を上げた。とたん、妹が身を乗り出してきて叫んだ。
「なにしてるん!」その声は非難の色を帯びていた。
「えっ」私は慌てて思わずボタンを連打した。主人公は両手で敵を突き飛ばし、その顔面を勢い良く踏みつけた。赤黒い血が飛び散り、主人公の足元に潰れた頭が転がった。
「助かったぁ」妹が安堵のため息をつく。画面の中では二体のクリーチャーの死体に囲まれて、傷を負った主人公がうなだれている。
「怪我してる」腹をおさえている主人公を指して妹が言った。私は近くにある治療薬を拾うと、それを使って傷を手当てした。とりあえず健康になった主人公は力強く両手を握りしめて背筋を伸ばし、正しい姿勢をとった。
「こういうゲーム」私が言うと、隣で妹が納得したように頷いて手を差し出してきた。コントローラを渡すと、妹は慎重に主人公を歩かせ始めた。私の説明に従い、妹の操作する主人公は次々と襲い来る敵をバラバラにしていった。
 私ははっとして妹の横顔を見た。彼女は当たり前のように私の隣にいて、当たり前のように笑っている。それが「家族」だと、私は改めて認識した。
「また出ていかんといてな」妹はぼそりと言った。
「うん」私はとっさにそう返事をしたが、その声は意味を持たない木霊のように、虚ろに胸の中に反響した。
 その日、編集長からのメールに私は結局返信しなかった。書きかけの文章が、デスクトップの片隅にごみのようにこびりついて残っていた。

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