よくできたFREE.3
その年の秋、連載していた雑誌が休刊になり、私はアパートを引き払って地元に帰ることにした。編集長に新たな雑誌の立ち上げを手伝ってほしいと誘われたが断った。夢を見続けるには情熱が要る。もうとてもフリーライターなどと名乗ってはいられなかった。
荷物をまとめ終え、引越し業者が全て積み込んで出発すると、私は空っぽになったアパートの室内を一瞥した。部屋には虚しさだけが残留していた。私はドアを閉め、鍵を掛けた。
半日車を走らせて、父の故郷、義母と妹の暮らす家のある和歌山の風景が見えてくると、私は気が重いような、ほっとするようななんともいえない気持ちになった。
実家に着くと、夜の九時だったが、義母は夕飯を作って待っていてくれた。
申し訳ない気持ちになり手伝おうとするが、義母は私を座らせるとてきぱきと食器を揃え、温め直した野菜炒めを大皿に盛った。程なくテーブルに揃ったのはご飯と味噌汁と炒め物というシンプルなものだったが、私は目を見張った。何が違うのかはわからなかったが、こんなに料理らしい料理を見るのは久しぶりだった。義母が缶ビールとグラスを持って食卓に着いた。
「ごめんなぁ、こんなんしかよう出来んで」義母は私にグラスを差し出すと、缶ビールを開けて注いでくれながら言った。
「おかえり、文ちゃん」
義母のその呼び方も、柔らかい声も昔のままで、相変わらずくすぐったかった。
「いつまでいるかわからないけど」
「ええっ! どっか行くん?」
義母が本当にびっくりしたように言うので私は困惑した。
「外国行くん?」
「いや、行きませんよ」
「しばらくうちでゆっくり休みなさい」
「うん」
「出来たらずっとおってほしいけど」
「とりあえず、こっちで仕事を探そうかと」
「嬉しい! すぐ部屋片付けます」
「いや仏間とか、どこでも」私は仏間の方を指差して言った。
「あそこもね、ちょっと片付けます」義母の慌てっぷりが可笑しくて、私は少し笑った。
そして人はこんなにも、短い間にびっくりしたり喜んだり慌てたりするものだったかと思った。
食事を終えて台所に食器を持っていこうとすると義母が「洗うから置いといて」と言ってくれたので私は家の中を見て回ることにした。確かに片付ける必要があった。仏間の畳の上は服や下着類で足の踏み場がない有様だった。二階に上がり私が使っていた部屋のドアを開けると、そこには壁があった。ドア付近の壁にある照明スイッチを手探りで入れる。明るくなった部屋の中は、通販の段ボール箱があちこちに積み上がっていた。
「あの子がぽいぽい放りこむねん」洗い物を終えた義母が上ってきて言った。放りこむことよりも、通販で物を買い過ぎなこと自体が問題なのではないだろうかと思ったが、それは言わずにおいた。
そういえば、妹はどこに行っているのかと聞こうと思ったら、ちょうど階下で玄関のドアが開く音が聞こえた。
「おかえりなさーい!」義母が階段の上から声を掛ける。ただいまー、と下から声が返ってくる。そんなやり取りもいかにも家族らしくて、私には新鮮だった。
義母に続いて階段を下りていくと、玄関の私の靴を訝しんでいる妹と目があった。
「ええーっ」妹は私を見て驚いたかと思うと、くすくす笑い出した。まるで不意打ちで面白い冗談を聞かされた時のようなリアクションだった。私が妹の反応に戸惑っていると義母がうん、と頷いた。
「お兄ちゃんやで」妹は更にツボにはまったようで笑いを堪えるのに必死だった。
「笑ってる場合か」私は少しでも兄の威厳を取り戻すべく低い声で言った。
「だって、髭生えてる」
私は顎に手をやって髭をさすった。結構伸びている。そういえば引越しの準備を始めてからしばらく剃っていなかった。
「おじちゃんになった」ようやく笑い終えた妹はしみじみと言った。以前実家に顔を出したのは五年前の正月だった。あの時妹はまだ小学生だった。一週間程いたはずだが、友人と会ったりしてろくに家にいないまま東京に戻ってしまった。そして今、数年のブランクを感じさせない家族の対応を目の当たりにし、私は内心戸惑っていた。
「はよ着替えて来なさい、ご飯用意するから」義母がそう言うと妹は私の顔をもう一度確認するようにちらっと見てから階段を上っていった。
私はとりあえず寝場所を確保しようと思い仏間に向かった。部屋に足を踏み入れ、屈み込んで足元にあるものを適当に掴む。レースのくたびれた、くすんだピンク色のショーツだった。
「やめてっ」背後から突然義母の声がしたので私はびくりと竦んだ。
「いや、あの片付けようと」しどろもどろになりながら私は言った。
「私がやるから、置いといて」義母は私の手から下着をひったくるとため息を吐いた。「私かって仕事やめて家のことやりたいねんけど……」
義母が部屋から出ていった後、私は一人暗い部屋の中で考えこんでいた。彼女たちの生活。父の選択の残した結果。私が目を逸らしてきたもの。
階段を軽快に駆け下りる音が聞こえて来てはっと我に返った私が部屋から出ると、ちょうど下りてきた妹と鉢合わせした。
「わっ、びっくりしたぁ」妹が儀礼的なリアクションだけしてすぐにリビングに入っていったので、私は少しほっとした。二階の部屋なら片付けてもいいものかと思案していると、妹がリビングから顔を出した。
「コーヒー飲むかって」
「あ、はい」
「はいやって」私はいいのだろうか、と思いながらリビングに向かった。テーブルの上には既に妹のための夕食が並べられていた。
妹は箸を持ったまま動きを止めてテレビのバラエティ番組に見入っている。
「はよ食べなさい」義母が台所からコーヒーの入ったカップとパックの牛乳を持ってきた。
「ストップ言ってな」義母がパックを傾けて牛乳を注いでくれようとする。
「あ、いいです。そのままで」
「あらぁ。それやったら少なかったわ」
「いいです」私はさっきから感じている気まずさをなんとかしようと、義母の顔を見た。彼女はテーブルの上の蜜柑を手に取り、皮を剥きながらテレビを眺めている。
「あの、さっきはすみません」私はぼそりと言った。テレビから歓声が上がる。妹がふふっと笑った。
私は俯く。コーヒーが湯気を立てている。私の口から出た言葉は、風船のように宙に浮いてしまった。
「はい」顔を上げると、義母から蜜柑を手渡された。へたのところで皮が繋がって花のように開いている。
「すみません」私は実を一房ちぎって取り、口に入れた。既に知っている味。ありふれた果物だが以前、いつ食べたのかを思い出せない。
「てか」妹がふと顔を向けてきた。
「お兄ちゃん敬語やん」
「えっ」妹に言われて気がついた。私は敬語で話していた。無意識のことだったが、指摘され意識してもなおそれが私にはしっくりくるように感じられた。
私は家を出る前、高校生だった頃のことを思い出そうとした。私は二人とどう話していたか。砂埃にまみれた義母。妹は、体と同じくらい大きなランドセルを背負って、私を追いかけて走っていた。
「前からそうやったよ」義母が言った。
「前……」「そうやったかなあ」私と妹は同時に首を傾げた。
「最初の頃、私も思わずつっこんだわ」義母がうんうんと頷く。「他人行儀な子やなあって思ったけど、そしたら綾ちゃんにも敬語やったから笑ってしもてな」
久々に父の名を、義母の口から出るそれを聞いて、私は少し胸がざわつくのを感じた。それほど自然に、まるで今も呼び慣れているかのようにもういない人の名を呼ぶことが出来るのが私には不思議だった。
「父さんに、敬語」私は父に話しかけた記憶を引き出そうとするが、何も出てこない。
「そう、で綾ちゃんもいつも敬語やってん」
「変な親子やん」妹が笑いながら言った。
(今日からここが貴方の家ですよ)
「確かに、そうでした」記憶のスイッチが突然オンになったかのように私は父の口調を思い出す。
「文ちゃんは真面目やなぁ」義母が私の前にある蜜柑から一房取ると言った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?