2.彼女と私のリスタート
帰り道。信号を待っていると、向かいの歩道に麻里花がいた。高校に入学してから一度も会っていなかった。一ヶ月ぶりの彼女の姿は相変わらず綺麗で愛おしく、ひろ子の鼓動は高まった。麻里花はその小さくて整った顔を傾げて、笑顔で何かを喋っている。長い黒髪がふわりと風に揺れる。言葉の内容はわからないが、麻里花の様子はとても穏やかで、幸せそうに見えた。
(ああ、麻里花の隣にいるのが私だったらなあ)想像して自然とひろ子の頬が緩んだ。ふと気付く。隣?
そうだ。今、あの隣にいるのは麻里花の彼氏だ。麻里花と同じ有名進学校を受験していた彼は、卒業間近になって突然麻里花に告白した。麻里花も戸惑っていたけど、ひろ子の方がもっと驚いた。麻里花が男の子と付き合うなんて。ひろ子は麻里花に腹を立てたしすごく悲しくて、最後はぎくしゃくしたまま卒業を迎えた。結局、麻里花と彼は同じ高校に合格し、二人は付き合いだした。
道路の向こう側で麻里花たちは笑い合っている。ひろ子は信号が変わる前に急いで、そこを離れて歩き出した。
ひろ子は一ヶ月前までの日々を思い出していた。毎日、並んで一緒に登下校したし、休日はお互いの家でよく遊んだ。ひろ子はおしゃれに無頓着で、大体動きやすいシャツにパンツスタイルだったけど、麻里花は可愛い服をたくさん持っていて、そのどれを着ても似合うので、麻里花の家であれこれ着替える彼女を見ているだけで、ひろ子はいつまで経っても飽きなかった。
お人形のような麻里花にひろ子はふざけて抱きつき、彼女の頬にキスをした。ひろ子は麻里花に触るのが大好きだったし、彼女の困ったような反応も大好きだった。
だけど本気になるのはいつも麻里花が先だった。「あいしてる」麻里花はひろ子の耳元で囁いた。麻里花の甘い息が耳に掛かり、ひろ子は全身が痺れたようになって彼女に寄り掛かった。小さなベッドの上で二人はお互いの体を触り合った。痩せて貧相なひろ子と違って、麻里花の体は丸くてふかふかだった。ひろ子は恥ずかしかったけど、麻里花は可愛い、とひろ子の浮き出た肋骨を指でなぞって言ってくれた。
麻里花は動物が苦手で、ひろ子が一度ふざけて、うちで飼っている猫を掴んで近づけたときは本気で怒った。彼女は何も言わず立ち上がって帰ってしまい、ひろ子は突然のことにびっくりして猫を膝に乗せたまま泣いてしまった。ひろ子は夜になっても眠れず、布団の中で麻里花のことを考えた。その時初めて、ひろ子は彼女が好きなんだと気付いた。
その次の日は朝から居てもたってもいられず、通学路で麻里花を見た瞬間に抱きついてしまった。麻里花はいつものように困ったように笑って、ひろ子の肩をぽんぽんしてくれた。
歩きながら色々思い出すと切なくなってきて、駅前のクレープ屋さんに吸い寄せられるように寄ると、店のおばちゃんに生クリームチョコバナナを注文した。ここはいつも行列が出来てるのに今日はラッキーだ。生地を流してささっと形作り、トッピングをどんと載せてあっという間に出来上がり。熟練したおばちゃんの手捌きを見ていると少し元気が出てきた。出来あがったクレープを受け取る。なめらかな生クリームを頬張って、ふと麻里花はカスタード派だったことを思い出す。
いかん。麻里花のことは忘れよう。そう思って、麻里花の想い出を思いっきり全力投球で放り投げても、気が付くと思考はブーメランのようにぐるっと回って帰ってきてしまう。こんなのはやっぱり自分らしくない。
高校に入ってからもいまいち冴えない感じだった。クラスは賑やかでみんな仲が良いし、なんだかんだ騒いでいる内は楽しいんだけど、それだけというかこう、何かが足りなかった。中学と同じバレー部に入るべきだったかもしれない。でも中学三年間の情熱を部活動に全く注がなかった自分が入部するのは何となく躊躇われた。
ひろ子は麻里花に誘われて、ただ一緒に過ごすために練習に参加していただけだった。もう少し真面目にやっておけばよかったが後悔してもしょうがない。とにかく新しいことを始めよう!
と、思ってアルバイトを始めたのだった。ファミリーレストランのフロアー担当。いわゆるウェイトレス、小さい頃から何となく憧れだった。そしてバイクを買う! バイクに颯爽とまたがった想像の自分が海岸線を走り抜けていく。ひろ子の輝かしい未来は何となくこれから始まるのだ。
妄想に胸を膨らませていると、いつの間にか家の近くまで帰って来ていた。住宅街には幾つも筋があるけど、気が付くと小学校時代から通い慣れたルートを無意識に選んで歩いている。
「ひろ子?」
突然、背後から声を掛けられて振り向くと麻里花が立っていた。
「やっぱり、ひろ子だ」麻里花はいつものように微笑んでいた。
「久しぶり」咄嗟に笑おうとして、中途半端に口の端をピクピクさせながらひろ子は答えた。彼女のことばかり考えていたのに、実際会ってみるとなんだか気まずかった。
「なんだか、元気ない?」麻里花がひろ子の目を覗きこんで言った。彼女の視線に射抜かれて、心が見透かされてしまうような気がした。
「そんなことないよ!」ひろ子は彼女から目を逸らして慌てて言った。「バイトも始めたし」
「そうなんだ、偉いね」
「えっ、普通だよ」
「だって、働くのは大変でしょう」
「やりたいからやってるだけだよ」
「そう?」
不思議そうに言う麻里花を見て、ひろ子は少し苛立ちを覚えた。どうしてだろう、彼女は自分の大切な人だったはずなのに。今は彼女の存在をとても遠くに感じた。
「今、つまらないわ」麻里花がため息を吐いて言った。「中学の頃は楽しかった」
「そんなのって」ひろ子はきっと麻里花を睨みつけた。(私は、麻里花がわからない。でも、私たちは一緒だ。過去を振り返って勝手に落ち込んでいる)「違うよ。今が全部なんだよ」
ひろ子は、淋しそうな目をした麻里花を残して駆け出した。
「お前今日はずっこけんじゃねーぞ」キッチン担当の下永さんがビシッとひろ子を指差して言った。
「もちろんです下永さん!」
今日はバイト二回目だ。前回、ひろ子は彼と一緒に入って大変なミスをしでかしてしまった。それはもう、色々と……。
「マジで勘弁しろよ。お前は皿割るだけでいいけど、こっちは作り直しなんだからな」
「任せて下さい。今日はなんだかいけそうな気がします」
「頼むぞおい」下永さんは食材の下拵えをしながら呟いた。前回はディナータイムだったからてんてこ舞いだった。だけど今日はモーニングだ。多分大丈夫。
いや無理だった。むしろお昼前の方が客数も多ければ入れ替わりも早い。途中から店長が来てからはひろ子は延々片付けとテーブル拭きに駆けずり回った。
昼過ぎ、店長から上がるように言われ、ようやく休憩所に入った時はぐったりだった。椅子にぐでっともたれかかっていると、下永さんが休憩で入って来た。
「お疲れ様です!」
「これを食えよ」下永さんは手に持ったチョコパフェをテーブルに置いた。
「良いんですか?」
「今日は何故か余ってたからな」
「あっ、そういえばこれ……」ひろ子がバナナパフェと間違えて注文したやつだった。
「良かったな、割引価格だぞ」
「やったあ」ともかく、チョコパフェは美味しかった。
「反省はしろよ」下永さんは軽くため息を吐いた。「お前は、学生?」
「高一です」ひろ子はチョコアイスをもぐもぐ食べながら言った。「下永さんは?」
「俺はフリーターだ」下永さんは煙草に火を点けながら言った。
「おぉー」フリーターと言う響きにひろ子は少しときめいた。「師匠って呼んでもいいですか?」
「何のだよ」
「えっと、人生?」
「お前の将来はフリーターに繋がっているのか」
「将来ですか……」そう言われても将来なんてわからない。「とりあえず、バイクが欲しいです」
「何かやりたいことがあるのはいいんじゃね」下永さんは煙草の灰を灰皿に落としながら言った。
「そうですねえ」バイクは、やりたいことなのだろうか。
「俺はバンドやってる」
「さすが師匠!」
「だから何のだよ」下永さんのチョップがひろ子のおでこにこつんと当たった。
バイトの帰り、改めて考えていた。やりたいこと。
とにかく、麻里花を忘れたかった。それがやりたいこと?
麻里花が心に空けた穴が虚しくて、彼女のことを考えなくて済むならそれでいいと思っていた。でも、なにかが違う。なにかがもやもやする。麻里花とは、まだ終わっていなかった。
(そうだ。私は傷付くのが怖くて、本物の麻里花から逃げていたんだ)ひろ子は彼女に電話をかけた。
いつもの通学路で麻里花が立っていた。ゆるい薄桃色のブラウスがふわりと夕風に揺れていた。
「麻里花」
ひろ子は彼女を見つめた。彼女もひろ子を見つめていた。こうしてきちんと向き合うのは久しぶりだった。ひろ子は深呼吸して言った。
「私、麻里花が大好きだったんだ」
「わたしも、好きだった」
「うん」
「初めて、聞いたわ」
「今もやっぱり、好き」
「そう」
麻里花の手がひろ子の頬に触れた。冷やりとした指の感触を受けて、ひろ子の目から涙がこぼれ落ちた。麻里花はひろ子の涙で指を濡らしながらじっとひろ子を見つめ続けた。
「ごめんね」やがて、そう小さく麻里花が呟いた。
ひろ子は彼女の唇にキスをした。二人の唇が触れているあいだ、時間は止まり、二人は永遠の中で沈黙した。
やがて、再び時間が動き出した。
「さよなら」ひろ子は麻里花の体温がまだ残っている唇で、彼女に別れを告げた。そして彼女からそっと身を離すと、踵を返して走り出した。ひろ子はそのまま行き先も決めず走り続けた。走り続けるひろ子の中で、新鮮な衝動が渦巻き始めていた。
「師匠、私と一緒にロックをやりませんか」翌日のバイトでひろ子は下永さんに思い切って言ってみた。下永さんは不審そうな顔でひろ子を見返した。
「お前、楽器出来たのか」
「いいえ、これからです」すかさず下永さんのチョップが飛んできた。
「それでやる気か」
「やる気だけです!」
「まあやる気は勝手だが、じゃあ来週のライブハウスに出るから、お前ドラム担当な」
「マジですか! 任せて下さい!」ひろ子はぐっとガッツポーズをした。
将来なんてわからない。ただ、前を見た。
すうっと微かな光が見えた気がした。
その光を信じて、ひろ子は走り出した。
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