4.アルプス
「先輩、メロンパンとあんパン、どっちがいいですか?」
コンビニの袋を引っ提げてひろ子が駆け寄ってくる。せわしない動きがまるで小動物だ。
「結構です」
彼女をパシリに使った覚えはない。
「そんな正直なあなたには、このメロンパンとあんパンの両方を差し上げます!」
一人ではしゃいでいるひろ子を置いて綾は校庭を歩く。
歩きながら空を見上げる。九月のさわやかな風が吹き抜けた。天高く馬肥ゆる秋。
澄んだ上空を悠々と千切れ雲が流れていた。
「もしかして。先輩、ダイエットですか?」
追い付いてきたひろ子が綾の脇腹を後ろから触った。
「しないよそんなの」
綾はひろ子の手を払いのける。
一人でいたいというのに。この後輩はくだらないことを言いながら寄ってくる。
綾はひろ子に向き直った。彼女の丸い大きな目がこっちを見つめている。餌を期待する猫の目だ、と綾は思った。
「何か用ですか」
心の距離を示すため、綾は意識して丁寧語を使った。
「お昼、ご一緒したいと思って。先輩、あれからずっと来ないから」
来ないというのは多分、中庭のことだ。以前、綾はそこで詩を書いたりして昼休みを過ごしていた。木陰になっていて静かなその場所を気に入っていたのだが、ある時この後輩がやって来た。面識もない彼女はいきなり綾の耳たぶに触れて嬉しそうな顔をした。綾は中庭に行くのをやめた。
しばらくすると下校中に背後から体当たりされた。見ると彼女だった。
「一緒に帰りましょう、先輩」
彼女はひろ子と名乗った。綾の隣を歩きながらひろ子は世界の裏側に潜む陰謀だか何だかの話をしていた。綾は世界に裏も表もない、とひろ子に言った。駅に着くと彼女は綾の家とは反対方向に向かう電車に乗って帰って行った。
そして今、コンビニの袋を携えたひろ子が目の前に立っている。綾はひろ子の馴れ馴れしさに内心戸惑っていた。綾は人付き合いが苦手だった。というより、和気藹々とした延々と続くおしゃべりというのがくだらなく思えて好きになれなかった。空気中に広がる沈黙を埋めるために話すべきことを無理矢理用意しているようにしか思えないのだ。だからそういうものからどんどん離れて一人でいるようにした。初めは気をつかって話しかけてくる人も、こちらの態度を認めるとそれ以上踏み込んでこなくなるものだ。だがひろ子はしぶとい。仕方なく綾は花壇の脇にあるベンチに腰掛けた。ひろ子は綾の隣に座ってメロンパンとあんパンを袋から取り出した。
「これはお近づきの印です。遠慮なくお納め下さい」
仰々しく差し出されたそれを受け取って、メロンパンはひろ子に返す。
「一個で充分です」
「そうですか」
ひろ子は返されたメロンパンの袋を眺めていたが、やがて袋を開けてかじりついた。
「それで」
綾が言うとひろ子はもごもごと返事をした。ひろ子はメロンパンを頬張りすぎてハムスターの様になっていた。
「……」綾は言い直した。
「なんで私とお近づきに?」
「それはもちろん!」
ひろ子は勢いよく立ち上がった。
「あなたをお誘いする為です!」
「何?」
ひろ子の突然のテンションの高さにちょっと引きながら綾は答えた。
「青春の捜索会です。あなたならきっと良さがわかると、あの日、中庭でお見かけしたときにピンと来たのです」
「青春の、創作会?」
部活動に興味のない綾でも何となくイメージは浮かんでくるような名前だった。
「ぜひとも一度見に来て下さい。あなたならまさにぴったりです。今日の放課後はどうですか? 時間はありますね?」
ひろ子に両手を握られて、綾は思わず小さく頷いていた。
放課後、下駄箱の前で待っていたひろ子と合流すると、彼女はどんどんと校門の外へ向かって歩き出した。
「校外?」
「電車で一駅移動します」
「校内活動じゃないの?」
綾は自分が勘違いをしていたことに気付いた。
「あれ、言ってませんでしたっけ」
ひろ子がきょとんとする。
「サークルです。ロックですよ!」
「……そうなんだ」
サークルって、ロックなのか。綾はやっぱり帰ろうかな、と一瞬思った。
駅に着いて、家に向かうのとは反対の電車に乗った。この時間の電車はけっこう混んでいる。うちの高校の生徒もいるけど、お年寄りや親子連れが多い。そしてその殆どの人は次の駅では降りなかった。電車が走り去ると、綾とひろ子がぽつんとホームに取り残された。ホームに売店も無いようなぱっとしない駅で、改札を抜けると住宅街だった。ひろ子の迷いない足どりに続いて十分ほど歩くと、彼女はある民家の前で立ち止まった。両隣の家と見比べても特徴のない、二階建ての、普通の家だった。表札には「下永」と書かれていた。
「ここ?」
綾は指差して言った。
「そうです。師匠の家ですよ」
ひろ子がインターホンを押しながら言った。やがて玄関からおばさんが一人出てきて愛想のいい笑顔で二人を招き入れた。
「こんにちは! 今日は学校の先輩を連れてきたんです」
ひろ子に紹介されて綾はどうも、と軽く挨拶した。玄関で靴を脱いで中にあがると奥のテーブルで主婦っぽい女の人たちがにぎやかに何か話していた。
「二階です」
そう言いながら廊下を進んでいくひろ子に続きながら、綾は熱心に喋っている人たちを眺めた。綾はそんなに一生懸命に誰かに向かって何かを話したことなど、ついぞなかった。
というか。綾は思った。クラスの彼女たちは話すべきことがたくさんありすぎて、昼休みがいくらあっても足りなくて、そこに沈黙なんてものの入り込む余地が全くないのかも。綾の頭の中にスイカが二つ浮かんだ。一つは中身の詰まった本物のスイカ。もう一つは空気の詰まったビーチボールのスイカ。で、どっちがどっち?
「先輩、こっちです!」
ひろ子の声が頭の上から聞こえてきた。見上げると彼女は階段の中ほどにいた。
「何ぼうっとしてるんですか、もう」
くすくす笑うひろ子に少しむっとする。ひろ子の頭の中には一体何が詰まっているのだろうか。階段を昇っていくと、ひろ子が複数あるドアの一つを開けた。
「来ましたー!」
ひろ子の後ろから部屋の中を覗くと男の子がちゃぶ台の前にあぐらをかいていた。
「おう、来たな」
黒髪を後ろでくくって纏めている男の子が、からっとした声で言った。彼は上下ともジャージという出で立ちだった。そしてこの家の子で、下永有紀と名乗った。
「まあお茶でも飲んでってよ」
綾たちが座ると有紀はグラスに入った茶褐色の飲み物を出してくれた。
「あんた、楽器やる?」
有紀が綾の目を見つめて言った。私は首を横に振った。本当は中学校でフルートをやってたけど。有紀は「そうなの?」と言った。
「師匠はすごいんですよー!」
ひろ子が嬉しそうに言った。有紀がひろ子の頭にチョップを入れる。
「だから何の師匠だよ」
有紀の声は不機嫌そうだが実際はどうだろうか。綾と目が合うと有紀は笑った。何か、気恥ずかしい気持ちが伝染してくる。しばらくして有紀が小さく呟いたが、何を言ったのかわからなかった。彼は自分の膝を軽く打ち叩いた。
「あー……ってかさ」自分の分のグラスを取るとぐっと飲み干す。すごくいい飲みっぷりだった。
そしてグラスをだんっと置くと。
「水って、大事だよな」有紀は唐突に水の話を始めた。
「水ですか?」ひろ子が聞き返す。
「俺らの身体に大事なのって水じゃん」
「身体のほぼ百パーセントが水だって聞いたことあります」ひろ子は頷いて言ったが、綾は知っている。それはクラゲだ。人は多分、半分くらい。
「そう、いわば人体そのものが水な訳だろ」有紀は納得した面持ちで話を進行させていた。
「で、水って何なのってなる」
「そっかぁ。自然ですね!」ひろ子は何かわかったようなことを言った。綾は目の前のグラスを手に取って一口飲んだ。ルイボスティー。なかなか珍しい。ほどよく甘く、さっぱりした味が口の中を通り抜けていった。
「このルイボスティーって家で淹れたんですか?」綾は有紀に尋ねた。
「そうだけど、まずい感じ?」有紀が自分の分のグラスを手に取り顔を近づけた。匂いを嗅いで首を傾げている。
「いや、店で売ってるのより美味しいです」
「それだ」有紀は力強く頷いた。そしてちょっと待ってな、と言うと階段を駆け下りて行った。
一分後、ミネラルウォーターのボトルを持って有紀は部屋に戻ってきた。
「南アルプス」ひろ子がラベルを見て言った。
「ここにはこう書いてある」有紀はラベルの成分表示をみんなに見えるようにした。採水地の欄には山梨県のなんとか市と書かれていた。
「よくわからん」有紀はボトルをちゃぶ台の上に置いて座り直した。「山の水はそんなにうまいのか」
綾は人里離れた山奥の岩のすき間を想像した。そこには水の妖精がひっそり暮らす小さな村があって、彼らは一人前になると旅に出る。葉っぱの小舟で川下り。風と一緒に口笛吹いて一人旅。そんなあるとき人間が現れて妖精をボトルに閉じ込めてしまう。げっ、捕まっちゃった。
綾は目の前のボトルの中で人間に抗議する妖精を見た。俺は見世物じゃねえ。
「水も大変なんだ」ごめん、水。と綾は思った。
「やっぱり南アルプスの水は一味違いますね」ひろ子がグラスに注ぎ直した水を一口飲んで言った。有紀がひろ子の頭にチョップを入れた。
「よし!」有紀は声を張って言った。「湧水を汲みに行こう」
「南アルプスですね!」ひろ子がガッツポーズをして立ち上がった。「今すぐ出発です!」
「落ち着け」有紀がひろ子のふくらはぎにチョップを入れた。「近くの山だから。明日の朝から出発して、登って、湧水汲んで、どっかで昼飯を食って解散にしよう。あんたも時間あるだろ?」
次の日は休日だし、それでなくても時間はいくらでもあった。だからだろうか。綾は反射的にうなずいていた。あまつさえ頬を綻ばせて。
……。
家に帰ってからお風呂に入り、自室に戻ってベッドの上で、一人ばたばたと転がる綾だった。
翌日の朝早く、それぞれ電車で乗り合わせて登山口の駅で降りた。有紀は中学生の妹を連れて来ていた。彼女は眼鏡をかけて腫れぼったい目をして、自己紹介を済ませると電車の中ではイヤホンで耳栓をして終始無言だった。彼女は明、という名前だった。まだ明るくなりたての登山口で途中のコンビニで買ったおにぎりを食べて、四人は登り始めた。山はそれほど険しくなく、ハイキングといった感じだったが日頃から運動不足の綾にはそれでも少し厳しかった。綾たちはしょっちゅう休憩しては雑談しながらゆっくり登った。ひろ子はファミレスでバイトをしていて、有紀とはそのバイト先で知り合ったことを綾は聞かされた。彼女たちはサークルのようなものを組んで活動している、とも。
「それが、〈せそく会〉なのです」ひろ子は得意気に宣言した。直後ひろ子の後頭部に小枝がヒットした。
「ださすぎ」明はひろ子のネーミングセンスにとても腹を立てているようだった。ひろ子はそうかな、と首を傾げていた。綾は明ちゃんならどんな名前がいいと思うかと聞いてみた。
「D.M.T.B.(Dead Murder Teddy Bear)」彼女は即答した。綾は、良いのか悪いのかわからなかったけどとにかく、ほう。と言った。
「綾さんだったらどんな名前が良いと思います?」明が今度は綾に聞いてきたので
「ようせいあるぷす」と答えると却下された。
一人だけどんどん先に登っていた有紀が向こうの方から小刻みに駆け下りてきた。
「走ると危ないよ」明が心配そうに言うと有紀がゆっくりと歩調を緩めた。
「ヤバいヤバい、鹿がいた」
「ホントですか師匠」ひろ子が最近買ったというデジカメを握りしめて鼻息を荒くした。
「三匹いた」
「行ってきます!」ひろ子が駆けだして行く後姿を見送って綾たちは少し休憩した。有紀はしきりに暑い、と繰り返しながら水筒の水をあおった。
綾はペットボトルのミネラルウォーターをワンショルダーのボディバッグから取り出して一口飲む。今朝コンビニで買ったこの水は、遥かフランスから来たという。
「おいしいですか、それ」横から明が綾の顔を覗きこんできた。
「うん。トレビアンって感じ」トレビアンって何だろう、帰ったら調べようと綾は思った。
「飴食べます?」明が飴の袋から小さな包装を一つ取り出してくれた。なんだか懐かれたようだ。
「ありがとう」カラフルな包装を開けて口に放り込むと何かのフルーツのような味だった。何だっけこれ、と思って包装を見ると「オーロラ味」と書かれていた。
三人で歩いていくと見晴らしの良い丘に着いた。ひろ子が岩に寄りかかって休んでいた。
「いただろ、三匹」有紀が言うとひろ子はデジカメを操作して画面に映った写真をこちらに見せた。
「ここにいるんですけど」ひろ子が指差すあたりにひろ子の指が写っていた。
「まあ、いいんじゃね」有紀は丘のふちに立って眼下の町並みを見渡した。「これとか撮れば」
「綺麗だね」綾も少し離れて、その景色の美しさを楽しんだ。
「私は生き物が撮りたかったんです」ひろ子が珍しくしょんぼりしていたので綾は鹿がいないかとその辺りを少し見回して探してみた。
「飴あげる」明も気の毒に思ったのかひろ子に飴を一つ手渡していた。
「ありがと」包装を切って飴玉を口に入れたひろ子は目を丸くした。「何これ」
「雁の味」明が袋を見ながら答えた。
「あー、ね」ひろ子は飴玉を口の中で転がしながら立ち上がった。そしてデジカメを操作して自分の指の写った写真を消去して、無駄に甘い、と言った。
綾は有紀に近付いて横顔を見た。皆それぞれに何か考えて生きている、のだろうか。もちろん、間違いなくそうだというのは解っている。だけど、彼の表情からは何も読み取れない。
そして皆、毎日忙しくいろいろやっている。ひろ子はバイトをしているし、綾はそんなこと考えたこともなかった。(私は何をすればいいだろう?)
気が付くと有紀が綾のことを見ていた。綾は急に気まずくなって言うべきことを探した。
「そういえば湧水ってどのへんにあるんですか?」
「それがなんか多分、通り過ぎたっぽい」
「全然気付かなかったですけど」歩くのに割と必死だったのもあるけれど。
「あと、水汲むタンク忘れたしなあ」
「それ忘れちゃ駄目でしょう」何しに来たのやら、と綾は少し呆れてしまった。
「良いんだよ別に。これもあるし」有紀は家から持ってきた水筒を掲げた。適当だなあ、と綾は笑った。でも、それでいいのかも。
「湧水だって生きてるんだから、詰めちゃったら味気ないしね」
「だから生水って言うのか」有紀はしきりに頷いていた。
「お前、詩人だな」
綾は自分の書いていたノートを覗かれたような恥ずかしさを感じて赤くなってしまった。確かに詩を書いたこともあったけど、それは誰かに見せるためじゃなかった。ただ、その時はそうしているのが好きだったのだ。
「もう書かないけどね」
「なんで?」
「言葉にすると何か違うっていうか」
「もっと書けばいいじゃん」「そうかなあ」どうやったって自然のものの色は言葉なんかじゃ表現できないような気がする。
「例えば、私は虹の淡さや、色彩を何て言えば良いのかわからない」
「そういうのを書きたいんじゃね?」
「難しすぎる……」
「俺、曲作ってるんだけどさ。お前、詞書いてくれよ」
「え、でも本当全然だよ」
「大丈夫、お前ならやれる」有紀が何を考えているのかは、やっぱりわからなかったけど、その確信に満ちた言い方が凄く嬉しかったので、綾はわかった、と答えた。
「それで、私がドラムをやることになったんですよ」帰りも四人で雑談しながらゆっくり歩いた。ひろ子はドラム歴半年だという。有紀曰く、ひろ子の心の強さだけは凄いらしい。
「何も考えてないんじゃないかとたまに思うけど」
「そんな、たまには考えますよ」
「コンビニでどの菓子買うかだろ」
「そんなのはピンとくるんです。違いますよ」ひろ子は人差し指を立てて言った。
「それは、考えてる、ってことを考えるんです」
「お前それ、哲学だな」有紀はしきりに頷いていた。
明は綾が音楽はあまり聴かないというと、イヤホンを半分貸して色々聴かせてくれた。明が一緒に聴きながらこの曲はここが良い、ここが良くないと熱心に教えてくれて、綾はその話の面白さと熱意に感心した。話したいことが彼女の中から際限なく湧き出てくるようで、私は彼女の生きる瑞々しいエネルギーを感じた。
「あ、湧いてますよ!」ひろ子が指差す先に皆が一斉に注目した。よく見ると岩の隙間からわずかに水が湧き出て、小指程度の流れを作っていた。
「これは気付かんわ」有紀がやれやれという顔をした。駆け寄ってひろ子が両手で掬って飲んだ。
「生きてて良かったぁー!」
ひろ子がガッツポーズをした。
「大げさすぎるだろ」有紀がひろ子の頭にチョップを入れた。
だがその後しばらく有紀は無言で湧水を飲み続けた。
綾は今、生きているなと思った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?