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がんばったで賞

「仲間や先輩、後輩の教員を支えるため、文科省に就職する」という挑戦が失敗に終わり3か月経った。

前回の記事は滞在先の飯田橋のホテルから投稿した。そこから3か月と考えると、ずいぶん長い時間が経ったと思う。

前回の記事は、少し前向きなニュアンスだった。挑戦を終えて、心はすっからかんにはなっていたものの、今後の人生への期待があった。周囲への感謝の気持ちもあった。たくさんの励ましの言葉をいただいて、それに素直に感謝していたと思う。帰りの新幹線では「挑戦してよかった」と思っていた。

しかし、地元の京都に帰り、普段どおりの仕事をして寝るだけの生活に戻ると、徐々に感謝よりも空虚さが心を覆うようになった。自分が使っていたテキストなどの教材類、ノートはすべて次の人へ譲渡した。自分の部屋から国家公務員用のものはすべてなくなったが、ここまでの足跡もなくしてしまったようだ。

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「文部科学省へ行く」という目標をなくし、モチベーションを失った。
これから何を目指して働けばよいのか。目標も目的も夢も動機も失った。

今までの目標があったから頑張ってこれたが、それが急になくなると、どうすればよいかわからなくなる。

一応、目標達成のためにある程度は努力したつもりだ。同じ大学内では受験者がおらず、社会人になってからも、当然仲間などいなかった。たった一人で勉強してきた。そのため、2年前の国家公務員総合職試験に最終合格した喜びはひとしおであった。

しかし、その先は続かなかった。三度ある官庁訪問のチャンスをふいにし、目標への道筋は完全に途絶えた。その喪失感はとても大きなものだ。

幸いにも、私の周囲の人は励ましてくれることが多い。受け取った直後はとてもうれしかった。しかし、時間が経つとネガティブなものに変化していった。

中島みゆきの「ファイト」という曲を送ってくれた人は「闘う君の唄を 闘わない奴等は笑うだろう」「冷たい水の中をふるえながらのぼっていけ」という歌詞を伝えたかったのだろう。

別の人は「挫折したときにどれだけがんばれるかが大事だ」という趣旨のことを話していた。それ即ち「逆境でもがんばれ」ということか。その人は、挫折を味わい、一生懸命に努力し、結果が出たのだという。

両者ともに「がんばれよ」と励ましてくれている。

しかし、「何を」がんばればいいのか。「ファイト」に出てくるような「冷たい水」が流れる川の中に自分はいない。これまでがんばってきたことを継続してがんばることはできないのだ。自分はすでにコースアウトし、「冷たい水」が流れる川に戻ることはできない。そこに居続けることができれば、よい言葉だっただろう。

「挫折したときにどれだけがんばれるか」についても同じだ。それまでやってきたことでいいならいくらでもがんばる。しかし、がんばる目標がなくなったのだ。目標のないところに意欲など生まれない。

それに、どうやらがんばりのスタミナ切れらしい。がんばらないといけないとはわかっているが、そんな力も出てこない。

「結果は振るわなかったけど、よい経験になったね」という人もいたが、そんな簡単に5年間を総括し、さっさと新しい道に進もうなどと切り替えが早い自分ではない。それはあまりに乱暴だ。

過去にしがみついてはいけない。
けれど、それだけ人生をかけたものだった。

夢破れ、京都に帰ってきた。がんばる気力もなく、最近は遊ぶことばかり考えている。日常は以前とほとんど変わらない。狭い地域をうろうろするだけの生活が続いている。

この文章も書こうと思って2か月以上経った。よくがんばった。

と無気力な自分ではあるが、最近少しずつ目標のようなものができつつある。今日は恨み節ばかりを書いたが、機会があればそちらも書いていこうと思う。

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