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「世界は私の一部」も超えて

毎朝アーシングしている公園の今朝は、芝生一面霧がかかり、雲海のような世界だった。
久しぶりの太陽の光も強く輝き、木々を照らし、天から地に光を注いでとても幻想的だった。
このような美しい世界を見れることにありがたさを感じた。足は超冷たかった!

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とても不思議なことが同時多発で起こっている。
周りにいる人たちの扉が開いていっている。
それぞれが全く異なる人生を歩み、さまざまな体験をしてきたのに、この同じタイミングで大きな意識変化が起こっている。

私自身も苦行を終えた。
この苦行と捉えていること自体、思い込みの解釈だったけど。笑
だからこそ、もう苦行はない。

彼とのことも、彼はただ存在していただけと今ならわかる。
彼との出会いや共に過ごした時間も、全て存在として現れた。
苦しみも喜びも全てエゴ。

愛されているとかの次元ではなく、どんなことが起こっても、存在していたこと自体が愛そのものだとわかった。全てが愛。

これは別れたことで感覚としてやっとわかった。
大きな愛に気づいた瞬間、電車内で思わず泣いてしまった。
誰に感謝すればいいのか?大いなる何か、という感覚。
とりあえず、実在する彼にお礼を伝えるか。笑

他のすべての事に関しても同じだ。
誰しも存在するだけ。
「私」と思った瞬間、全てエゴなのではないか。
「私」が何かしているわけでは無く(doing)存在しているだけ(being)。
doingは全てエゴだとしたら?beingでいるだけなのでは?

思えば、自然な流れで口から言葉が出ていた。
体が勝手に動いていた。いつの間にかこうなっていた。という感覚が近い。
言語化すると大いなる何かに導かれた、が近いのかな。

コントロールしたわけでもなく、今この瞬間、目の前に起こっていることに口から出たことを言っただけ。そこには「私」の感覚もない。
私が在るだけ。その連続が起こっているだけ。「存在」が続くだけ。
あえて言語化すると、在り方なのか?

だから、「世界は私の一部」、と言っていた「私」はエゴが入っている気がしてきた。
そもそも「私」と言っているものは全てエゴではないか?

今はとりあえず、ここまでの言語化。こう少しわかりやすく伝えたいなぁ。

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