亀島川橋巡りその3:霊岸橋
前回の記事は、その2で終わらせるつもりだったのですが、霊岸橋の記事を書いていたら、この新川地区のことをそんな簡単に終わらせてはいけない背景があったことに気づかされました。霊岸橋の名前の由来を調べたら出てくる出てくる新発見。東京ってまだまだ知らないことがたくさんある場所だということを実感させられました。
霊岸橋(れいがんばし)
そして霊岸橋です。永代通り沿いに架けられた橋です。創架は江戸初期といわれているらしいです:後に出てくる古地図を見てください、当時は現在の日本橋水門あたりの場所に架けられていたようです。1923年(大正12年)に関東大震災で被害を受け、昭和5年(1930年)の震災復興事業で4径間鉄筋コンクリート桁橋(長 41.3m, 幅 33.0m)が架けられました。現在の橋は、老朽化により昭和60年(1985年)に架け替えられました。
この橋の名前の由来を調べて得た情報です。
この辺り一帯は江戸の城下町が開拓される前は一面沼地葭原だった。
寛永元年(1624年)に、雄誉霊巌上人の開山により、この沼沢地が埋め立てられた後、霊巌寺が創建された。
この場所は、江戸の左近衛将監向井忠勝が屋敷地東方の沼沢地を幕府に寄進、霊巌に下賜されたもの。
埋め立てられた島は、寺の名前に因んで霊巌島といわれた。
霊岸橋の名前は島の名前(霊巌島)に由来するらしい。
明暦3年(1657年)、明暦の大火で霊巌寺は全焼したたため深川白河町へ移転した。
つまり、橋の名前は島の名前が由来ですが、その島は寺の名前が由来で、寺は開山した僧侶の名前が由来でした。とはいえ由来となった寺は火事で焼失し、この地から隅田川を隔てた深川に移転しています。島や橋や町の名前はいつのまにか僧侶の漢字とは違う「霊岸」が充てられるようになったのですね。
やはりここも埋め立て地でした。ちなみに江戸天保期(1831年~1844年)の地図上ではこうなっています。
この地図でわかるとおり、現在は埋め立てられて存在しない川が横断しています。それが地名にもなっている新川です。この川は河村瑞賢が万治三年(1660年)に開削したと言われていますが、昭和23年(1948年)に埋立てられました。新川が隅田川に合流した辺りに新川の跡碑が建てられています。
中央区立越前堀児童公園(東京都中央区新川1丁目12−1)に霊巌島の由来と霊巌寺跡の解説板がありました。
見出し画像は、ここに建っている霊巌島之碑です。その右側の説明板に以下のようなことが書いてありました。
ちなみに移転した霊巌寺です。
清澄白河駅からすぐのところです(東京都江東区白河1丁目3−32)。
この辺りの昔の町名「越前堀」は「新川」と改められましたが、公園の名前に残されています。「越前堀」は、この辺りに越前福井藩主 松平越前守の屋敷があり、三方が入堀に囲まれていたための通称でした。越前堀公園には越前堀跡の説明板も立っています。越前堀は1993年(平成5年)に完全に埋め立てられて八重洲通りが整備され、その道の延長線上に中央大橋が1994年1月に開通しました。
越前堀児童公園には、出土した越前堀の石垣石もありました。
新川二丁目交差点の歩道の植え込みに「越前堀の間知石」があるというので行ってみたのですが、ちょっと植木が茂りすぎていて外からは説明板が見えなくなっていました(笑)
ちょっと躊躇しつつも、この場所であってるはず・・・と左側の茂みに頭をつっこんだらありました。
「霊岸島」と言う名前の交差点がありました。新亀島橋の東詰です。このあたりの旧名は霊岸島町だったようなのでその名残りかもしれませんね。
結局、今回の記事を書くために、霊巌寺を訪ねて清澄白河に行ったり、別の日には遺跡探検のため改めて新川地区をぐるっと回りながら撮影したり、ちょっといい運動になりました。
中央大橋を渡りたい、そんな単純な理由がこの地に足を運ぶきっかけになりましたが、想像以上に面白い体験でした。
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