埋め立てられた川と橋があった場所(道三堀)
道三堀は江戸で初めて掘られた入堀です。江戸城建設の物資補給路として開削された舟入堀です。
徳川家康が江戸に入府したのが天正18年(1590年)8月1日。同年、道三堀が開削されます。その当時の江戸はまだ江戸前島とよばれる半島状の砂州で、西側には日比谷入江(つまり陸地に入り込んだ海)がありました。江戸城は海岸の波打ち際にあり、まだ粗末な状態だったそうです。家康が最初にとりかかったのが運河の開削で、そのうちの1つが道三堀です。道三堀があったのは現在の丸の内1丁目、大手町1丁目~2丁目にかけての約1kmでした。
道三堀は江戸前島の付け根の部分(つまり海岸線の北端同士)を東西に繋げるために掘られた運河でした。道三堀の開削により江戸湊からの物資を辰ノ口で荷揚げし、和田倉(倉庫)に集積保管していたんだそうです。和田倉門の「和田」は「わた」で海のことを示すそうで、日比谷入江に臨んで倉が建てられ、それが和田倉と呼ばれるようになりました。
下の地図は道三堀の場所を示す地図です。江戸後期のものなので日本橋川も外濠もありますが、入府当時この2つの川はまだ整備されていません。1603~7年に日比谷入江が埋め立てられ、それと並行して外濠が開削されたそうです。(開削の時期は諸説あるようです。)
道三堀は1909年(明治43年)に埋め立てられています。
東から西に向かって進みます。
銭瓶橋(ぜにがめはし)
開削された当時は江戸湊寄りに架けられていた橋、という事になるのかもしれません。その後掘割が整備され3つの川が交差する場所にありました。
素朴な疑問として、古地図などで位置を確認すると今の場所に置き換えたら大手町2丁目だと思うのですが、思っている場所と少し違うんでしょうか?
ずっと追いかけていた日本ビル解体現場(トーチタワー建設地)の近くにこの史跡案内板が立っています。
この案内板の道路を挟んだ向かい側に新10000円札の人の銅像があります。
銭瓶という名前に聞き覚えがありました。大手町二丁目再開発計画のD棟が東京都の下水道施設で、銭瓶町ポンプ所となっていたからです。この辺り、昔は銭瓶町と言われていたようで、名前は橋の名前から取られたようです。1929年(昭和4年)の帝都復興計画により大手町二丁目に編入され、町名としては消滅しているそうです。
道三橋(どうさんはし)
堀の名前になった橋。永代通りを大手町駅方向に進んでいくとオフィス街が出てきますが、高層ビルの谷間に史跡案内板が出てきます。場所は、大手町野村ビルと新大手町ビルの間の細道です。
説明はこうですが、堀の名前の由来となった道三という名前の医師はむしろ「曲直瀬(まなせ)道三」のほうを書いている人が多いのでちょっと調べてみました。曲直瀬道三が初代で、二代目が養子の曲直瀬玄朔、三代目が二代目の息子の曲直瀬玄鑑で、天正20年(1592年)に後陽成天皇より橘姓と今大路の家号を賜ったので今大路道三と名乗っていたようです。「曲直瀬今大路家の当主の多くは『道三』を襲名し、初代曲直瀬道三の一族・一門の立てた曲直瀬各家の宗家を任じた。」(wikipedia「今大路家」より)と書いてあるとおり、曲直瀬今大路家という氏族があったらしいのでどちらでも正しいのかもしれませんが、堀の名前の理由になったのは二代目道三の屋敷があったことらしいので・・・ってどの代でも道三なのか。
辰ノ口・竜ノ口(たつのくち)
辰ノ口があったあたりを地図に重ね合わせると、だいたい大手町のD4出口付近でした。現在は日比谷通りのこのへんになると思います。
和田倉噴水公園、この日は人もあまりいなくてとても落ち着きました。
ということで、自分はよく散歩する機会のある大手町が今回の舞台でした。大手町って普通あんまり散歩しないです?オフィス街だから土日は人が少なくて快適なんです。意外といたのが皇居をぐるぐる走っている人たち。何が彼らをそうさせるのだろう・・・私が走るのが苦手ってだけですが。
見出し画像は和田倉濠です。ちょうど夕日の時間帯で、夕日が水面に反射した美しい写真が撮れました。右手に映っているのはパレスホテルです。
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