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街歩き録

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街歩きの記事をテーマごとに並べ替えてみました。
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埋め立てられた川と橋があった場所(楓川その2)

その2です。久安橋の隣の橋からになります。 宝橋(たからはし) 関東大震災復興事業で昭和4年(1929年)に架けられました。架橋されたのが比較的新しいせいか、不思議なほど名前の由来には触れられていません。やはり宝町の町の名前からなのですかね。橋の両側に楓川宝橋公園が整備されています。 松幡橋(まつはたはし) 明暦の大火後に架けられた橋のようです。橋の両岸の町が松屋町と因幡町だったため両方の文字をとってこの名前になったと思われます。隣の弾正橋との距離はかなり近いですが、

埋め立てられた川と橋があった場所(楓川その1)

楓川(かえでがわ)はかつて中央区にあった河川です。史跡看板には「楓川(もみじがわ)」とわざわざふりがなが振られているものもあるのですが、そのいわれと思われる「紅葉川」(もみじがわ)は別に存在しますので、ここでは漢字の読み方通りに「かえで川」と言うことにします。 楓川がどの辺りだったかというと、現在の都心環状線の江戸橋JCT(兜町)から京橋JCTあたりまででした。このあたりはかつて江戸前島だった頃の東側の海岸線で、この東側を埋め立てる時に埋め残して作られたのが楓川だそうです。

埋め立てられた川と橋があった場所(京橋川その2)

その2です。え、もう橋は残ってないんじゃないか?と思っているそこの人、あるじゃないですか。今となってはもともと橋だったのかもわからない状態でずっと便利に使われてきた昭和通りの上の橋が。京橋川の記事を書いている人はたくさんいるのですが、なぜかみなさん、震災復興後に作られた新京橋の事は書かれないていないんです。川があった頃には橋だったはずなのに。歴史が浅いからなのかな。 新京橋 震災復興事業により幹線第1号として昭和通りが開通した時(昭和3年)に架けられました。京橋川の埋立て

埋め立てられた川と橋があった場所(京橋川その1)

5月の途中から、以前川だった場所をうろつく謎の行動をしていましたが、油堀川以外は記事にできていませんでした。次は京橋川です。 京橋川は開削された人口河川です。現在の場所でいうと、東京高速道路、いわゆるKK線の西銀座JCTから京橋JCTの間になります。京橋川は、外濠、楓川、三十間堀川、桜川(八丁堀)と合流していた0.6kmの堀割でした。外濠(外堀)はまだしもその他は現在は聞かない名前です。これらの川はすべて埋立てられています。 現在の地図です。 京橋(橋)があった中央通り

埋め立てられた川と橋があった場所(油堀川その3)

油堀川はこれが最終回です。 富岡橋があった場所から隅田川寄りに進みます。ちょっと古地図を見ていただくと中央下に富岡橋とあります。(現存しない橋です。)そこから西に向かって出てくる旧油堀川上の橋は2つ、千鳥橋と下之橋です。 今の地図です。水路がだいぶ無くなっているのがわかります。 歩いた道の途中に川がありました。大島川西支川です。前回の記事にも大島川東支川が出てきました。大島川という名称はかつての呼び名で、1965年の河川法改正により大横川に統一されました。ですが支川は昔の

埋め立てられた川と橋があった場所(油堀川その2)

前回、富岡橋の親柱を撮影した日、そのまま高速道路下を木場方向に向かって歩きました。首都高速9号深川線は箱崎JCTから辰巳JCTまでの路線ですが、散歩は油堀川があった木場公園手前(三ツ目通り)までです。高架橋の下は遊歩道として整備され、橋が屋根となって雨でも濡れずに歩けます。(ただし途中の道路で途切れるので、途中途中で横断歩道を渡る必要があります。) これは油堀川公園の内側から清澄通り方向を観た景色。道路を渡って高速道路の高架橋沿いに歩きました。富岡橋の親柱はこちら側からも見

埋め立てられた川と橋があった場所(油堀川その1)

5月の大型連休後半に、清澄白河にある深川江戸資料館を訪れました。霊巌寺の隣にあるこの資料館、いつも近くまで行っているのに足を踏み入れたことがありませんでした。入館料も400円とお安いので、何か資料になるものがあるかもと入ってみました。江戸の町並み再現は時代劇とかでもよく見る風景だったのでその時はあまり興味がなかったのですが(ごめんなさい)、導入展示室の年表は深川ゆかりの人物や深川地区の出来事がたくさん出てきて興味深かったです。あっさり廻り終わって1階に戻って来た時に、販売され

亀島川橋巡りその3:霊岸橋

前回の記事は、その2で終わらせるつもりだったのですが、霊岸橋の記事を書いていたら、この新川地区のことをそんな簡単に終わらせてはいけない背景があったことに気づかされました。霊岸橋の名前の由来を調べたら出てくる出てくる新発見。東京ってまだまだ知らないことがたくさんある場所だということを実感させられました。 霊岸橋(れいがんばし)そして霊岸橋です。永代通り沿いに架けられた橋です。創架は江戸初期といわれているらしいです:後に出てくる古地図を見てください、当時は現在の日本橋水門あたり

亀島川橋巡りその2:亀島橋・新亀島橋

亀島川は全長1.06kmの短い河川なのであっという間にすべての橋を巡ることができます。散歩という取材が終わった後、少ししてから記事にまとめているのですが、記事を書くために橋や川の名前の由来を調べているうちに新たな情報を知ることがよくあります。この橋巡りもこのままじゃ書けないと新川地区を何度か再訪したりしていました。 渡る前には興味がなかった新川地区は、江戸時代からの度重なる埋立てや掘削、関東大震災の被害の影響やその後の復興など、歴史を素通りできない街だったことに気づかされるの

亀島川橋巡りその1:南高橋・高橋

隅田川の橋渡りを趣味にしている私でも、なかなか渡る機会のない中央大橋。渡りたい、でも気が進まない。なぜなら、こんな言い方ちょっと失礼ですが、渡った先に何も目的がないからです。散歩に目的?目的が散歩でしょ?橋を渡るのも立派な目的でしょ?って思うかもしれません。ですがプラスアルファの目的がないと面白くありません。ここで桜を見たいとか、解体現場の進捗どうなってるかな?とか、今日はあの辺を歩きたいと思う次の目的が私には必ずあります。中央大橋を渡った先という表現は、両岸あるのでどちら側

春の臨海副都心散歩

3月4日、5日はSlash featuring Myles Kennedy and the Conspiratorsのライヴ参戦のため、会場であるZepp DiverCityに行きました。最寄り駅は「台場」か「東京テレポート」です。このへんのいわゆる臨海副都心地区は、ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線(1995年11月開業)や東京臨海高速鉄道りんかい線(1996年3月開業)が開通して鉄道で移動できるようになってから、来る機会がおおいに増えました。とはいえ、私がここに来る理由はコン

日本橋川橋巡り6:一石橋の架替え工事

春分の日の今日は散歩がてら東京ミッドタウン八重洲を探検。(目的は一つ前の記事のちょっとした位置確認です。)経路的に三越前駅で降りて、一石橋を渡ってそのまままっすぐ外堀通りを歩いて東京駅に向かうことが多いです。その途中でこんな貼り紙を見つけました。 B2出入口の方は前から通行止めになっていて知っていたのですが、B3出口側も通行止めになるようです。「2024年3月26日から 当面の間」となっていて、いつまで通れないのかははっきりと書かれていません。 調べてこのような記事を見つけ

日本橋川橋巡り5:新川橋から三崎橋(分流点)まで

前回の堀留橋からの続きです。見出し画像は目指していた東京ドームが見えてきた新三崎橋手前。ドーム側の熱狂ぶりはここでは見えません。 新川橋(しんかわばし) 西岸は千代田区飯田橋2丁目、東岸は神田三崎町3丁目と西神田3丁目の境界です。相変わらず首都高の高架橋の真下にあります。今の橋は昭和2年7月に架けられました。 一つ前の堀留橋に「堀留橋から神田川に至る区間も、明治になって再び掘削され、日本橋川と神田川が結ばれました」という説明があったように、江戸時代に一度埋立てられた三崎橋

日本橋川橋巡り4:錦橋から堀留橋まで

前回の神田橋からの続きです。 (タイトルに番号を振りました) 錦橋(にしきばし) 北岸が神田錦町、南岸が大手町一丁目に架けられた橋です。皇居の周辺を囲む内堀通りの気象庁前交差点から錦町河岸交差点の間に橋があります。(この道をまっすぐ進むとお茶の水駅前です。)橋の名前の由来は橋がある地名(錦町や錦町河岸)からきているようですが、地名の由来はこのあたりに旗本の一色(いっしき)氏の屋敷が2軒あったから二色→錦となったという説があるそうです。(Wikipediaや他サイトの情報よ