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パレード #014

ああ恋が終わった
くよくよしないで切り替える
いつものジレンマ
嘘と本当の隙間を縫う
悲しみの予感は
だらだらしないで直ぐ捨てる
イルミネーション
僕らを見守っている

この世で1番幸せな瞬間を切り取ってしまおう
どうでもいい常識を飲み干して
その手を取った
温かくて 柔らかい手

↑はパレード(仮)という曲の詩である。全部作成途中なので、タイトルも内容もこれからどう変わって行くかは自分にも分からない。

振り返れば、自分の曲の詩をブログにアップするという行為は森良太氏(Brian the Sun)の真似をして始めた事になる。手書きのノートにアウトプットしたり、パソコンのメモアプリにアウトプットしたり、はたまたブログにアウトプットする事で、曲にたいする理解が深まっていくような気がする。深まっているかは分からない、自分の描く曲のうち、未完のものは未だ偶像という意識が強い。

パレードというタイトルだが、イルミネーションでも構わない。光っていればいいような気がする。パレードは前に進むが、恐らく後ろには戻らない。であれば、人と人の関係に近いのはパレードのような気がするが、問答の回答は自分にしか出せないので、うーんと悩む他ない。

恋が終わったら何になるのか?なんとなく失恋って思うけど、そうでないこともある。次のステージは愛かもしれない。そんな余白のある詩をちゃんと描ききりたいと言うのが現在のこの曲に望むところである。喜びと悲しみが表裏一体であることも、ここに付け加えておきたい。

但し、そんな事、みんな昔から知っている。なんだか詩を書いていると、自身が新たな到達点みたいなものに届いた気がして、途端に制作物が教訓めいたりすることがよくある。それはほんとうにさめるので、避けなければならない。何かを教えたくて歌っているわけではないのだ。

気を抜くと作文をしてしまう。ちゃんと作詞したい。意図的に体言止めを用いたい。オノマトペを活用したい。そして少しだけ、サイコパスでいたいような、気がする。(TSUNAMIの,"好きなのに泣いたのは何故?"という詩は少し狂っていないと書けないような、気がした。個人的に。)

だから敢えて整合性の取れない文を書いてみたりする。頭で考えて書けるものなどタカガシレテイルト、ちょっと寂しいながらも思ったりする。その、考えても書けない部分は、お勉強頑張ってきた脳に依存しないでかきあげたい。パンチラインをちゃんと、お勉強頑張ってきた脳で修飾する。そんな書き方だったら、自分を許せるような気がする。

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