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不忌溜まり191215

140字制限を気にせず由なしごとを書きつけたかっただけで、日記の習慣を身につけようとして書き始めたわけではない。

テーマを設定するつもりもない。文章としての体裁を整えるつもりもない。段落初めにスペースキーを打つ、みたいなこともやらない。三点リーダーも偶数回にしないかもしれない。なんと恐ろしいことだろうか。

はてなブログは引越しであったり旅行であったり日頃考えているささやかながらも何か実のありそうなものについて書く場、という感覚が自分の中にどうしてもある。気軽にまとまった文量のどうでもいい事柄を遺棄できる場所はないかと考えると、noteがちょうどいいのかなと言う結論に落ち着いた。

どうでもいいことを全て垂れ流す場だから「ダークソウル日記」にしたかった。だけれどそれだとダークソウルの攻略だとか考察だとかを書き連ねるブログに思えてしまう。「病み村」だとメンタルをテーマにしていそう。「腐れ谷」、自己卑下が著しい。「吹き溜まり」は?ちょうどいいけれど、そのままだとやっぱりネガティブなものを書く場所に思える。じゃあダジャレでも加えておけ。そういうわけで、こんなタイトルになった。流石にダサすぎると思い直したら、シレッとタイトルを変える。


最近は阿房列車や翡翠城市と並行して、リンダ・グラットンとアンドリュー・スコットの『LIFE SHIFT』を読んでいる。

平均寿命が長くなっていく社会では、もう「教育、労働、ご隠居」の3つのライフステージで人生を設計するのは無理だろうから、やっていき方を考えないといけないよね、といった趣旨の本だ。


平積みになっているところを見かけた人は多いと思う。

これは私も最近知ったことなのだけれど、ビジネス街の本屋で平積みになっているという理由で本は無価値にはならないし、サラリーマンがよく読んでいるという理由でも本は無価値にはならない。

会社である時見かけたので、素直に買うことにした。会社にとっては紛れもない悲劇なのかもしれないけれど、私個人の人生にとってはこの上なく幸いなことに、私は会社で私より愚かな人間に出会ったことがない。そういうわけで、会社の人間が読んでいたり言及していたり参照したりしている本は、とりあえず読んでおいて間違いがない。

LIFESHIFTはまだまだ中盤。読み終わっているわけではない。今の所語られているのメッセージは主に「ちゃんと色んな友達作ったり色んなスキルを得たりすることに投資を続けて都度都度どう人生をやっていくのか考えて勝負していけ」というもの。こう要約すると安っぽくて仕方がないなと自分でも今驚いている。いや、読むと説得力があるし、俺も人生100年時代をサバイブしていくぞと前向きな気持ちになるんだって。いい本だよ。

ともかく、私は結構素直な人間なので、こうした本で取り上げられたエッセンスや、テクニックは大体の場合「俺ならどうなる?」と反芻することにしている。繰り返すけれど、サラリーマンが読んでいるという理由で本が無価値になることはない。

仕事はうまくいっている。ここで言う「うまくいっている」とは「期待されるのと同等かそれ以上のパフォーマンスを発揮しておりチームメンバーや上長から一目を置かれている」、という意味ではなく、「私が考える私の能力程度にはパフォーマンスを発揮しており、私が当然ぶつかるだろうなと考えていた困難を私の予想通り乗り越え、私が想定している程度の成長を続けている」という意味だ。

何にせよ、仕事はうまくいっている。仕事上のスキルは尊敬できる同僚たちの助けを得ながら常に向上し続けている。だけれど他社にいる同業界/業種内の友人というものを私は持っていない。これは転職やスキルアップ、後々の大きな飛躍のためのサブプロジェクトといった面で明確な課題となるだろう。

私は日頃何かを「握る」仕事ばかりしている。握る仕事というものはすぐにはなくなりそうにないけれども、プレイヤーとしてやっていける寿命が長い職だともあまり思えない。そうなってくると、今の職種から飛び立つ勇気と着地先の当てが必要になってくる。

斜に構えず、なんかの勉強会に出たり起業家コミュニティに顔を出したりといったことを繰り返していかないといけないフェイズなんだろうなと思えてきた。外に出て行動している人間の考えやアンテナの向きを模倣する必要がある。

私は冗談を言ったり年上から可愛がられたりすることは大好きなのだけれども、正直あまりコミュニケーション能力が高い人間ではない。

特に欠けているのは「対等な立場の人間に対する初対面から一ヶ月程度の期間における自己紹介能力」で、要は人としてわかりやすくない。これは別に複雑であるとか深みがあるとかそういうポジティブな意味ではなく、単にどう扱ってやればいい奴なのかがわかりにくいというだけの話だ。ここにも課題がある。顔がオタクなのでオタクなのはわかってもらえる。

人と出会った際に「このような人間である」と箱にしまってもらい、「あのような付き合い方ならこいつとは具合が良さそうだな」と思ってもらう能力が私にはもう少し必要だ。ほっといても年齢が上がっていく以上「愚かだが自分にはよく懐いている若者」だと思わせるだけで存在を許してくれる年長者のパイはどんどん減っていくので、マトモな自己演出が必要になってくるだろう。「去年まで千駄ヶ谷にある大学時代の先輩の家に住んでて、今は赤羽で男三人暮らしをしている」という設定には大いに助けられているので、二年後、四年後、六年後の私のキャラクター性にうまく繋げていきたい。

多分素直にターシャ・ユーリックの『insight』でも読んで、きちんと自己認識(とりわけ外的自己認識)を深めるメソッドを得るのが得策なのだと思う。ちょっと前に話題になってたあの本だ。繰り返すけれど、ビジネスマンがよく読んでいるという理由で本が無価値になることはない。「人生を劇的に変える」というフレーズが安っぽくて手に取るのを躊躇わせるけれど。


読み終わってない本と読んですらいない本の話はここで終わりにする。

今日は部屋を片付けたり好きな実況者の動画を見た後は、ユニクロでヒートテックを買ったり公共料金を払ったり銭湯に入ったりするために外出した。

ところがどっこい駅に着いたら献血の呼び込みが行われている。私は献血カーに引き寄せられ、当然のように血をたっぷり吸われ、江戸っ子向けのあっつい銭湯に行くには適切ではない体になってしまった。

自分の中にしか存在しないマスコットは、言わないだけできっと誰しもが持っているだろう。

私の中にはいわゆる「バケツ型の兜」をかぶった中年男性が住んでいる。彼は「聖堂騎士」を自称しており、夜な夜な鎌倉の街をパトロールしたり休日には炊き出しに参加したりする。いわゆる正義の味方だ。狂人だけれど。

このマスコットは主に私に善行を促す時に現れる。口癖は「正義の声が聞こえているか?」「正しいことを為せ」「それは本当に正義を為さない理由になるのか?」だ。怖い。

献血カーを見て、今日は暇だし久々に献血でもするかと考える。だけど俺はこの後俺銭湯に行きたいしなと背を向ける。そんな時に聖堂騎士が俺の頭の中に現れ、低い声でこう語るのだ。「正義の声が聞こえているか?」と。「正しいことを為せ」と。いやでも今日は銭湯に行きたい。出張の新幹線で腰が痛いんだ。「それは本当に正義を為さない理由になるのか?」なるほど、確かに理由にはならないかもしれない。ボランティアの学生に「あ、献血したいです」と声をかける。

どうも今回が十回目だったらしく、記念品をもらえた。意外と俺って献血していないんだと、自分でも驚いた。てっきり三十回くらいしたもんだとばかり思っていたから。




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