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童具と石ころや木の枝の違い

 ある母親からこんな質問がありました。

「石ころや木の枝などで子どもはそれなりに遊んでいます。どうしても童具を与える必要があるのでしょうか。」

 この問いかけは、きっとどの母親・保育者も心の片隅にもっているはずです。
童具を買い与える側の最も素朴な疑問です。

 たしかに子どもは、木の枝でも石ころでもスプーンでもフォークでも遊びます。
あるいは百円、二百円で買える市販のおもちゃでも眼をきらきらさせて飛びつきます。たとえその遊びが一時の気晴らしであったとしても–––– おもちゃはその程度のものとして通用してきました。もともとおもちゃにそれ以上の価値を求めようとはしない歴史が数百年続いてきました。

 私が童具に込める世界は人間の根元にある創造性を開発することです。ですからいままでのおもちゃの世界からもその役割を果たしてきた、あやとりやコマやヨーヨーや折り紙などはなくてはならない童具としてとりあげてきました。

 人類は音の世界から音階を、色の世界から循環色や明度や彩度を発見してきました。それは秩序の発見でした。それによって、楽器や絵の具などの表現手段を創造しました。言語には文法があり、スポーツにはルールがあり、組織があれば必ず守らねばならない規則があります。俳句や和歌には五七五、五七五七七の秩序をわざわざつくっています。秩序によって表現の自由、活動の自由と公平が保証されるからです。ところが木の枝や、石ころではこの秩序が直感できません。

 秩序と自由、全く正反対に思えるものにじつは切っても切れない関係があるのです。そのことに童具を当てはめてみましょう。

 子どもは石ころや木の枝で遊ぶなかでその秩序が直感できるでしょうか。8つの石ころで遊べる範囲はごく限られています。ところが全く同じ形の立方体8つで広がる遊びの世界は無限です。そこには量や数や形態の秩序があるからです。

 人間は2歳が過ぎて少し言葉を獲得すると同時に「どうして?」とあらゆるものごとの中に答えを求めるようになります。

 これは必然=因果=秩序を知ろうとする欲求の表れです。きっと人間をとりまく世界に必然=秩序があることを直感しているのでしょう。この「どうして」の答えを子どもにもわかりやすく用意し、表現の手段にしたものが童具です。

 あるいはこんな例えはいかがでしょう。距離を計るときにメートルという単位が使われます。それがあるから「あのプールの長さは25メートルある」と言えばその大きさがイメージできるようになります。

 人間はどんなものにも基準を当てはめてイメージします。童具は人間をとりまく世界のさまざまな事象や出来事を洞察するための基準になるものでもあるのです。それは、まる・四角・三角、大きい・小さいなどのごく初歩的な概念から、あらゆる生命がすべて関係しあって存在しているという<関係性の原理>に至るまで、子どもに直感させる内容をもっています。

 童具と石ころや木の枝やとの違い、ご理解いただけたでしょうか。

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