Vol.0 日本の教育は「自分の幸せ」のため、、、か?
「日本のアタリマエを変える学校たち」(新評論)が2024/7/12に出版される。インスタライブをするにあたり、発信内容を整理しようと思い、noteに書き留めることにした。なぜなら情報のROI最大化を図りたいからだ。が、書籍の内容についてはあまり触れない。でないと、出版社に申し訳ないからだ。
日本の教育は「自分の幸せ」のため?ー自分の子どもだけが幸せになれる世界はない
私は39歳で出産した。なので、息子とはほぼ40歳違いとなる。にもかかわらず、公立の小学校も中学校も40年前とあまり変わらなかったような気がする。その頃には可もなく不可もなく、と思った。私は富山県小杉町立小杉小学校・中学校で学んだが、息子は横浜市青葉区立で田舎と都会(の田舎)の違いはある。息子が小学校の時に驚いたのは、給食メニューが横浜市立小学校全てで一緒だったことと、運動会の朝や卒業式の朝に並んでいる人がいることだった。ちなみに横浜市立小学校は335校、 6,970クラス、171,621人の生徒、11,678人の教員、1,312人の職員で構成されている。この全員のお昼の給食が一緒なのだからすごいことだ。これはあまりにも関係ないけど、驚いたので共有したい。(私立の小学校は11校と少ないが、中学受験から私立に行くことが多いように思う。そして、横浜からは東京の学校にも行くので、市内、県内に留まるとは限らない。逆はそう多くはない。)
「なんのために勉強するんだろう」「なんのために学校に行くんだろう」と思ったり、悩むことは誰にもあると思う。今の時代、そんな質問をされたら教師や保護者はなんと答えるのだろうか。少なくとも一度くらいは「幸せになるために」と言う答えは出されているのではないだろうか。残念なことに、私自身のことは全く覚えてないが、息子からそんな質問をされたことがなかったので、私は回答したことがない。もしも今、その質問をされたなら自分の好きなことやたりたいことを見つけながら、「誰もが楽しく生きられるように」「みんなで幸せになれるように」「世界平和のために」なんて真顔で言うような気がする。数年前まではそんなことを言う大人ではなかった。その頃だったら「少しでも良い学校に行って、自分らしい仕事ができる会社を選択できるように、名前の通った大学に行って、、、」と答えていたのではないだろうか?「学校の成績が良いから医学部に行かざるを得なかった」と言う大学生の話はよく聞くが、これらは都会でも田舎でも起きている現象だ。
一点でも多く点数を取ることで良い成績が取れて、そのためにスマホを使ってカンニングすると言う事件もあったが、勉強をするというか、点数を取るために学ぶのだとしたら、試験や受験を終えたら忘れてしまうことも多いだろう。何年もかけて子どもたちが育成されていくゴールがどこにあるのか、と思ってしまう。
しかし、なぜか英語力の調査には日本は参加しない。シンガポールをはじめとした英語で学んでいる他のアジアの先進国との英語力の開きを心配するのかもしれないが、それこそ比較をするからであり、そこからの変化=成長を見ていくためには重要なものだと思う。点数が悪くても、試験を受ける子どもたちは気にしないどころか、次の一歩に向けて何か考え始める可能性がある。それが、止めるのは大人だ。どうして英語力の国際比較に参加しないのか、そうすることでどんなメリットが日本の子どもたちにあるのか聞いてみたい。
誰のために勉強するか
自分で書きながら耳が痛い。子どもが勉強しないとつい「勉強は自分のためにするものだ」「あなたのために言ってるのだ」「お母さんは本当は言いたくないのだ」なんて、何度言ったことだろう。今となっては、その頃の自分に教えてあげたい。「あなたもそうだったでしょ、自分がのめり込んだり、興味を持つものがないとそう簡単に子どもは、特にしたくないと思っている勉強をするものではないのよ」と。自分から学びたくなって、どんどん調べたり、誰かに聞いたりしながら、興味の扉を開いていくことが勉強=学びであり、机に座って、問題集・参考書を横に置いて、裏にある回答を見ながらページを進めていくことで身につくことは少ないだろう。しかし何かのきっかけで、自分が何が好きかがわかり、どんどんのめり込んでいく。「そんな子は少ないですよ」と言われるとも思うのだが、親ができることは、子どもたちに「いろんなことに興味を持つ」きっかけをあげることではないだろうか。もちろん好きなものが早く見つかる子どももいるだろう。一度好きなものができたら、途中で方向がずれても構わない。まず、一つの小さな目標ができることで子どもたちは前のめりになる。今思えば、私はそんなことをしてあげられる親ではなかったので、反省しかない。もっともっといろんなことを一緒にやったら、息子のためにも自分のためにもなっただろうな、と今頃思う。
学ぶと言うことは、継続して知識や経験が積み重なることで、それらが確実に誰かのためになる。それが巡り巡って自分や家族や周りに帰ってくるのを目にすることは多い。つまり、「楽しい社会を作るために」「自分の役割を持つために」勉強するのではないだろうか。「そんなこと子どもがわかりますかね?」と質問が来ると思う。誰も最初からわかるはずもない。少なくとも「あなたのために」と言う抽象度よりは少し低くて、言い続けているうちにわかるようになるのではないかと思う。子どもは自分なりに考えて答えを出す天才だから。どう思いますか?
日本の幸福度ランキングが低い理由は?
世界幸福度ランキングがある。いつも公表された時だけニュースになる、と言うのが日本での評価ではないだろうか?このデータで地価が変わったり、インバウンド外国人が減るわけではないので、一時的に気にするけど忘れてしまう、と言う扱いを日本では受けている。
韓国と51位、52位を争っているようだが、数年前は61位と62位を争っていた。その前後の国にはG7、G20に入っている国はない。上位10カ国と何が違うのか、など、比較している媒体はきっとあると思うので、興味があれば調べてみてくださいな。上位にある北欧の国々は生まれてから死ぬまで学ぶ権利があったり、学校の自由度が高かったり、少なくとも「詰め込み教育」と言われるものが公教育としては実施されていない。もちろん長所もあれば短所もあるだろう。地政学的な意味と国の歴史・発展は各々違うのだから、国という組織単位で全体最適化ができないとには国民の幸福度は上がらないだろう。コソボが29位かあ、、、とちょっと不思議な気がした。
「誰かを笑顔にする人」を育成するのが学校かも?
一生笑って過ごせるはずもないが、究極の学校の目的はなんだろうと思った時に、「誰かを笑顔にする人」が育まれる場所なのではないかと思っている。「ありがとう」と言われたら誰でも笑顔になる。困ったときに助けを求められて答える、あるいは、求められなくてもサポートする、そんなことが自然にできる人が増えていくのが学舎の役割な気がする。数学や英語や物理や体育やいろんな教科を学ぶが、それらは、自分が好きなことを掘り下げたり、自分の得意を発見するためのツールなのではないかと思う。だから、さまざまな教科を子どもたちが嫌いになることは、本当に社会の損失であり、できるだけそうならないような環境が欲しいと親としても思う。得意なところを伸ばして、苦手なことはいろんな人と協調して乗り越えられる教育システムと社会システムが必要ではないだろうか。「学校は媒介」と言われたことがあってハッとした。まさにその通りだと思った。人と人だったり、学校と学校(中学校から高校へ、高校から大学へ、大学から社会へ等)を繋いで、点(人)が線や面の中に入りやすくなっていく。
学校という箱の外と子どもたちや先生をつなぐことが、多くの人の笑顔を増やすことになる。
学校がもっといろんな人が集まるところになっていく方法はないものだろうか?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?