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SDGsとわたし

SDGsって、「エスディージーズ」と読むのに、私は無意識に「エスディージーエス」と言っていたそうだ。友人との電話での会話の中で指摘されてビックリ、大笑い。つい先週も、SDGsのウェブ講座を受けたというのに…私って耳と頭と口が繋がっていないのだろうか。

車に乗るときと、掃除機以外の掃除をするときはラジオをつけるのが好きだ。局は断然、FM COCOLOがお気に入りでよく聞いているけれど、いまCOCOLOもスペシャルプログラムを組んでSDGsを取り上げている。池田なみ子さんの声で啓発CMがしょっちゅう流れるし、朝のまちゃおの番組でもSDGsをシリーズで取り上げている。新聞でも毎日、このキーワードを見かけない日はないし、SDGsが何だかどんどん身近になってきた!

私が最初にSDGsのことを知ったのは2016年、熱帯医学研修の講義の中で出会った。その時にサミットで採択されたということは情報として知ったけれど、それからしばらく日常でそのキーワードに出会うことはあまりなかったように思う。

あれから約5年。こうしてどんどん新しいものが身近になっていく過程を通して、習慣の大切さを感じている。毎日毎日、目や耳からインプットして、たまにアウトプットして…そうしているうちに、いつの間にか私達の世界でごく当たり前になっていく。未来に目標やゴールを設定したら、こんな風に近づけていくのだなと、改めて体感している。


ところで、SDGsについて身近にできることは、シサム工房さんのキャッチコピー「お買い物とはどんな社会に一票を投じるか」のように、つかう側としての責任を持つということ。でも、お買い物に夢中になる前に、実は一番地球にやさしい「できるだけ消費を抑える」ということも忘れるべからず、だと思う。

身の回りで使っているもの、購入するものの背景について知ることは消費者としての義務だ。知ったとしても、すぐにはどうしようもできないこともあるけれど、まずは意識的になること。知ることから。

二年前にコンゴ人のムクウェゲ医師がノーベル賞を受賞したけれど、彼の来日講演の内容は私に衝撃の事実を知らせた。「あなたがスマホを使っているのであれば、コンゴにおける長年の紛争とあなたは無関係ではない。」と言うのだ。

どういうことか。武装勢力が海外に鉱物を売りさばき、安さを求める企業のもとへ届く。安さを求める私が、そのコルタンが入ったスマホを選ぶ。私がスマホを買ったということは、武装勢力にお金を払ったということ。その武装勢力と深いつながりがある人間が軍や政権の座にとどまり続けているという不正義(10年前に国連人権事務所が600件余りの性暴力・虐殺のレポートを報告。国連は加害者を裁くための特別法廷を設置するよう勧告するが、いまも実現せず)にも、私は無関係ではなかったという事実。

NGOで紛争地の人を助ける活動に携わっていたというのに、しかも縁のあるコンゴの問題であるというのに、私はそのことを知らなかった。「たまたま生まれた日本で、用意された生活水準をごく当たり前に私が生きていく」ということが、「たまたまその土地に生まれた、途上国のに生きる人が直面する世界」に与える影響について、あまりにも無自覚だった。この衝撃が私に「すべての社会問題は自分とは無関係ではない」という意識を植え付けた。


自分をとり囲むモノについては「それがそうあること」にもう慣れすぎてしまって、ついつい無意識になってしまいがちだ。だから、考えるベクトルを反対向きにしてみる。

世界中の社会問題について、見聞きする機会があれば、自分がそれにどう関わっているのか、はたまた加担しているのか、その問題の方から自分へと辿っていく方が、迷子にならない。見えないけど絶対につながっている謎、点(問題)と点(私)の関係を探偵のように解き明かす作戦。

一見自分とは全く無関係に見える、日本から遠く離れた国の社会問題に自分がどう関わっているか。その謎が解き明かされるのはまさに目から鱗だ。そうだ、SDGs啓蒙活動として、火曜サスペンス劇場で社会問題を一つ一つ取り上げてみるというのはどうだろう。

容疑者は私たち一人ひとり。「いや、私じゃないですって。知らないです。関係ない。やってませんって。」しらを切り続けるけれど、最後は片平なぎさに崖っぷちで追いつめられる。「やっぱり。犯人はあなただったのね。」

事実は小説よりも奇なり。殺人事件の犯人を突き止めるよりも、どんなトリックを見抜くよりも、自分が犯人だったなんて。これ以上インパクトのあるミステリーがあるだろうか。



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