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「わたしは分断を許さない」とひとは言うけれどーー堀潤さんとの対話(後編)

堀潤さんが監督をつとめる映画『わたしは分断を許さない』が公開中です。映画の公開にあわせて、僕と堀さんが対話をしました。その内容を今回は皆さんにも読んでいただきたいと思います。前編はこちら
※初出『わたしは分断を許さない』(実業之日本社)

■「決定的なリアリティ」のもと「問い」を立て直す

堀 経済的な効率や経済合理性が、人権や尊厳を凌駕していくような社会構造にNOと言わなきゃいけないんだろうけれども、自分がその渦中にいると、その仕組みの中にいることになかなか気づけない。安定した日常が必要なのはその通りですが、そういった中で知らず知らずのうちに何かが削り取られていき、経済合理性を優先することに自分も加担してしまっているんじゃないか。それを一つ、「生業」をキーワードに探ったんです。生業というものを通して、効率 さが優先される社会に対してどう向き合っていくべきなのか。

宇野 僕も生業を基準にものを考えるのはすごく大事なことだと思っています。例えば、僕や堀さんが社会の問題に対して声を上げることは、元々こういった仕事をしているから誰からも後ろ指をさされませんよね。というか、たぶん反対にそれをしないとむしろ自分たちの仕事を応援してくれた仲間や読者から支持を失ってしまう。これが普通のサラリーマンだったり公務員の人が、政治の問題について何か意見を述べたりすると、たぶん日本では異常なことのように思われてしまう気がする。
堀さんが嫌いな大きい主語で語られることの多い天下国家のこととか、世界経済のことというのは、労働とは切り離された世界だと思われている。でもそれは違いますよね。実際に、TPPの問題一つとっても、農家のおじさんが米を作っていることにも繋がっている。さらに言えば、僕や堀さんの仕事はもちろんのこと、どんな仕事だって国内だけで完結するようなことなんて一つもなくて、働くことでもう世界に繫がっている。
ただ、みんなそのことが実感できない。インターネットでプロフィール欄に政治的な主張をぎっしり書いている人っていますよね。その人たちは、生活という経済の領域とSNSという政治の領域がぱっくり分断してしまっているんです。そうすることによって、本当に物事を考える時の土台になるような「決 定的なリアリティ」を失ってしまっているのではないか。

堀 確かにそうですね。その「決定的なリアリティ」は本来、自分の足元や周りの人間関係を見ればあるはずなのに、そうは感じ取れない。

宇野 そうです。断絶なんですよね。つまり、大きな主語で天下国家のことを 語る時は、自分の生活のことを全部忘れてしまっているんです。だから自分のことをすごく棚に上げて国家を論じ、国家と国家の在り方を論じ、グローバルな経済の在り方を論じて何が正しくないかを自分でジャッジして、他人に難癖 をつけて良い気分になっている。

しかしその一方で、自分の等身大の生活においては、大きなことはほとんど忘れて、ちょっとした職場の人間関係とか、ちょっとした出費とか、そういうことばかりに気をもやしている。この2つは本来繋がっているはずなのに、特にこの国では、この2つが断絶した状態でものを考える癖がついてしまっている人が本当に多い。そこが僕らの内なる分断の最も大きな原因の一つかなと思っています。

堀 なんでそうなってしまったのでしょうか。

宇野 僕らのような言葉を使ってその2つを繋ぐ仕事の力の弱さなんだと思う。 本来、それは堀さんのようなジャーナリストの仕事であるかもしれないし、僕のような批評家の仕事かもしれないし、あるいは小説家や映画監督といった創作の仕事かもしれないけれど、この 2 つを結ぶ力というのは、僕らの力不足もあって、非常に弱くなってしまっている。
僕は、自分の等身大の日常に閉塞しないために、大きいものについて考えることは必要だと思っています。そこの考え方は堀さんと少し違って、Google Mapsが現在地を教えてくれるように、大きな主語を考えることは時には必要だと思うんです。
ただ逆に、大きい主語ばかりで等身大の自分のことを忘れて、まるで現実逃避するみたいに天下国家のことを論じ続けると、目の前の現実や足元がまるで見えなくなる。

堀 そうですね。

宇野 だから本来、この2つは、地続きでグラデーションのように繋がっていなければならないんだけど、そのための言葉というのが、今はとても不足している。

堀 どうしても今は、大きい主語の方がわかりやすく論じやすい。その上、ある意味語る上でリスクを背負わなくていいみたいなところもあるから、安易に そちらの世界から出ようとしないんですよね。それはもうまさに原発の運動がそうだった。

宇野 そうですよね。

堀 現実に福島の傷んでいる現場への手当ということよりも、「推進か反対か」「政治的なメッセージはどちらなのか」ということに終始した結果、現場のみなさんは傷んだまま孤立感を深めているわけです。それでいて、原子力の問題の何かが解決できたのかというと、結局のところ積み残されたまま2020年を迎えている。それで今、原発の話をすると、臭いものには蓋をしようということで、まだ原発の話をしているのかみたいな空気さえ生まれてしまった。

だからまさに宇野さんが言うような徹底的なリアリズムを元にした言論であり、そういうことを考える場を作っていくことが必要なんだと思います。

宇野 そうですね。原発の話に関していえば、最初に自らの立場を明らかにしておくと、僕は基本的には原発に反対の立場ですし、安保法制も性急な手続き やその内容を見ても大きな問題があったと思っています。
その上で本当に慎重に言葉を選ぶと、どちらの運動も結果的には、ある種政略の道具になっていた側面が大きかったと思うんです。かなり短期的な政略の 道具になってしまって、持続性があり広がりを持った大きな市民運動に育つことはなかった。その運動を主導したイデオローグたちの一部も原発問題などにコミットすることによって、自分のインフルエンサーとしての影響力を拡大するとか、そういうことしか考えていなかったように思います。

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