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「わたしは分断を許さない」とひとは言うけれどーー堀潤さんとの対話(前編)

堀潤さんが監督をつとめる映画『わたしは分断を許さない』が公開中です。映画の公開にあわせて、僕と堀さんが対話をしました。その内容を今回は皆さんにも読んでいただきたいと思います。
※初出『わたしは分断を許さない』(実業之日本社)

■あらかじめ見たかったものを見たところで人は何も変わらない

宇野 今回堀さんは、取材の中で「見てしまったもの」とか「自分では予め見たいと思っていなかったもの」、つまりカメラに映したものじゃなくて、結果的に映ってしまったものをすごく引き受けようとしているなと感じました。取材って単に行けば良いというものではないと思う。行くこと自体が大変だというのはあるんだけど現場に行くことが目的化してしまっては意味がない。そこで目に映ってしまったもの、カメラに映ってしまったものをしっかりと検証する 知性と勇気、そして発信していく覚悟が大事ですよね。

 僕自身初めて行って気づくことの方が大きいんですよね。どうしても鉤括弧を埋めにいくような取材って、マスコミ時代にたくさんしてきて嫌だなと思っていたし、それがメディアへの不信感にもが繋がっていたと思うんです。取材された側も、あなたが見たいものを見るためにわざわざ協力したわけじゃないのにという不満もいっぱいあった。

宇野 新聞やテレビの取材を受けるたびに思いますよ。鉤括弧を埋めるためにこういったセリフを聞き出したい、その一言を引き出すために僕に話を聞きに来ることが、新聞記者にしてもテレビの記者にしてもすごく多い。
でも僕は、ジャーナリズムってそういうことではないんだよなあと、僕自身も一発信者として日々感じながら仕事してるんですよ。何で現場に行くかというと、自己破壊のために行くわけじゃないですか。

 自己破壊?

宇野 自分たちが見えていないものとか、聞こえていないものを聞くことによって、一回自分の世界観とか理解なりを破壊して、それを再構成することでより深い理解にたどり着く。視点を少し変えることによってそれまで気づかなかったことに気づく。その成果を僕らが再編集して発信していくことでしか、人々に何かを伝えるという仕事は成立しないと思っています。
でも、みんないつの間にか現場に行っただけで満足してしまっている。つまり、観光客になってしまっていると本当に思うんですよ。絵葉書と同じ構図でセルフィーを撮ったり、旧所名跡の前でウィキペディアを引くように、あらかじめ見たかったものを見て、確認したところで人は何も変わらない。そこで目 に映ってしまったものとか、聞こえてしまったものを引き受けるという態度は、そういうことではない。

 そうですよね。見ないようにしていたり、見たんだけど見なかったことにしてというのが問題になっている。そういう意味では、分断を生む一つの装置の中に当然、マスメディア、メディアの在り様というのは描きたいなと思っていたんですよね。

(続く)

僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。