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『ブラッシュアップライフ』と「平凡」の問題

「普通」というイデオロギー

今更だがようやく『ブラッシュアップライフ』を最終回まで見終えた。練り込まれた展開はもちろん、主役の安藤サクラをはじめ、30代の俳優たちの好演もあり最後まで楽しみに観終えることができた。バカリズムの脚本の日常の他愛もないおしゃべりを正確にシミュレーションして「共感」を誘う(彼に限らず、この種の「知的なお笑い」の定番とも言える)あの「ノリ」(とそれを最大化するための演出)はさすがに食傷気味だけれど、こういったいまや使い古された(いい加減サムくなりはじめている)手法を再生するための、タイムリープを活かした物語展開が功を奏していると考えればいいだろう。

さて、その上で今回僕が考えてみたいのは、この作品がおそらくはかなり無自覚に擁護してしまっているイデオロギーについて、だ。

『ちびまる子ちゃん症候群』から考える

ちょっと変わったところから話をはじめると、僕はさくらももこの『ちびまる子ちゃん』がある時期からすごく苦手になった。それは、大野君と杉山君の存在が前面化しはじめた頃だったと思う。彼らはスクールカースト上位の「イケメン」キャラクターで、主人公のまる子は彼らに憧れている。対して、藤木や永沢といった下位の男子たちには哀れみと蔑みの入り混じった感想を抱いている。いつの間にか、『ちびまる子ちゃん』はカースト中位の「まる子」たちが大野君と杉山君(的なもの)を立て、藤木と永沢(的なもの)を下に見ることで自分たちの「中位」を確認するという側面が定着してしまったように思う。そして、僕はこの「イタいやつ」「失敗したやつ」「基準から外れているやつ」、つまり共同体の周辺にいる存在を指を指して笑い、石を投げることで自分を中心にいる存在に近づけるという卑しさとは、戦後日本の、そして今日のこの社会の息苦しさそのものではないかと思うのだ。

「飲みニケーション」の卑しさと「テレビ的」なクスクス笑い

この文章を読んでいる人の中にも、職場の「飲み会」が苦手な人がいると思う(僕もそうだ)。昭和の世界観に生きるオーナーや経営者や管理職は、「飲み会」でその場に居ない人の欠席裁判を開き、そしてその場にいる人間のメンバーシップを確認する。「敵」を指定することで、「仲間」を確認する。

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