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『エルピス』と「正義」の問題

今季(2022年秋季)のテレビドラマでは、僕はやはり『エルピス』をもっとも楽しみに見ていた。昨日放送された最終回には賛否が渦巻いているらしい。「巨悪」として描かれた大門副総理のスキャンダルを主人公の恵那が取引材料に用いて、かねてより追求していた冤罪事件の真相を報道する、という結末がその原因だ。批判的な人々の中には悪の根源を追及せずに、目の前の成果を勝ち取ることにモヤついているケースが多いように見受けられるが、これはおそらく造り手たちの狙い(問題提起)通りの反応だろう。その意味においても、この作品は大きく成功していると言える。

その前提の上で、今回は僕なりの視点からこの作品について、多少の疑問を交えながら考えてみたい。プラットフォームに脳を侵された人々は作品を株券のように採点することしか考えられないようだけれど、本来人間と表現の関係はそのようなものではない。「みんな」で同じ作品を褒めて、「同じ」であることを確認して安心するタイプの人たちはそもそも創作物ではなくいい匂いのする棒のところにでも群がったらいいと思うのだが、まあ、いいだろう。
これから僕が記していくのは、作品から得たものから展開する思考の開陳、つまり批評であり作品の善し悪しに対する評価ではない。それにしても毎回このような断り書きをしないといけないのは、不幸な社会だと思う。

Twitter的社会観を「あえて」採用すること

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